オルガン

日曜日の昼寝中。「まゆゆ@AKB48の素晴らしさを理解できるのは私だけで、理解できない私以外の全員は馬鹿だ」と主張する玉袋筋太郎と「カントの素晴らしさを理解できるのは私だけで、理解できない私以外の全員は馬鹿だ」と主張する私の議論を面白おかしくギャグにして司会進行する水道橋博士という夢を見た。ゲストに小林よしのり田原総一郎や全身ウルトラマンのボディペイントをして、ビルを踏み潰すまゆゆも出てきた。円谷プロがアメリカでウルトラマンのTV放送をしようとした頃「この赤いのは服か皮膚か」と聞かれて答えられなくて企画がなくなったそうだ。このヒーローは破れまくった露出の激しい服を着ているのか、全裸で登場するのか。夢の中で見たウルトラマンコスチュームのまゆゆはボディペイントなのか全身タイツなのか、それによってTVで放送できるのか出来ないのかが変わってくる。


思春期に、哲学や現代思想に興味を持った頃、オルガン学派と批評空間派みたいな二つの軸があって、両方の軸が動くことで一つの自動車として機能していた。哲学というのはより厳密に言うと形而上学(メタ・フィジックス)で、アリストテレスが物理学(フィジックス)の前(メタ)に書いた、断り書きの部分を指して、その断り書きはオルガン(道具)と呼ばれた。物理学を書く上で、使用する専門用語(英語で言えば、be動詞やhaveやgetなど)の意味を厳密に定義した部分がオルガンで、物理学を書くという目的のための道具(オルガン)とされる。


カントの純粋理性批判は三部に分かれていて、それぞれ、感性・悟性・理性を論じているが、悟性を論じる第二部は、アリストテレスのオルガンを論じている。ハイデガーアリストテレスのオルガンを論じていて、ハイデガーの主な仕事は存在論と呼ばれる。存在(be動詞)の意味の変遷について論じている。


オルガン、専門用語の意味解説なんてのはあくまで、道具・手段であり、目的ではない。この辺もアリストテレス−カント−オルガン学派で一致している。対する批評空間派だと、「器官なき身体」という専門用語が出てくる。「器官(オルガン)なき身体」オルガンには、男性器の意味もあって、器官無き身体は女性器を意味する。オルガンが、道具・手段でしかなかったのに対し、それ自体が目的であり到達点であるものが女性器で、ミル・プラトー(千の高原)は、女性のエクスタシー状態を示している。男性のように、イッタ瞬間から下がっていく峰でなく、イッタ状態が高いポジションで平らに持続する高原になる。まあ、ここでカントを男性器側に入れるのもどうかと思うが、現代思想にはそういう、ポルノ的な比喩が多く出てくる。


オルガン学派の著作は基本、専門用語・学術用語解説集で、専門用語・学術用語という道具を身に付ける事は、議論や訴訟をする上で有利になる強くなるという側面がある。対する批評空間派は、それ自体が目的であるような面白い話や面白い思想を輸入・紹介する。


カントは純粋理性批判≒オルガンを「思想を建築するための土台だ」と言う。カントが生きた時代はフランス革命の頃で、中世から近代に移り変わる時期で、カントは古代ローマ〜中世フランスのロマンス語圏に栄えたスコラ哲学を、当時発展途上国だったドイツに輸入(要約)する仕事をした。先進国で生まれた膨大な量の思想を、一冊の薄っぺらな本に要約する際、基本となる保守本流の思想を輸入して、瑣末な部分は切っていく。


逆に、カントに切られた瑣末な部分を継承するのがベルクソンドゥルーズ浅田彰の流れで、特にドゥルーズや浅田は、言葉の持つ音楽的な美しさ、音の響き、アクセントの持つリズム、韻律としての側面を重視した言葉使いで思想を組み立てた。音の美しさはそれ自体が目的であり、意味を伝えるための手段ではない。