雑感

東さんの中にある矛盾。東さんの専門分野ポストモダニズムと東さんのやりたいこと、タコツボ化された世界から出る。これが正反対で、ポストモダンは中心−周縁の境界を壊して、中心を複数化させてばら撒く感じだけど、そうじゃなくて、中心・メインストリームとなるメディアを作りたいのが東さんの欲望に見える。


東さんが浅田さんに「モダニズムのハードコア」http://www.amazon.co.jp/dp/4872332032/を何故作ったのかをうかがっていた。浅田さんはスポンサー絡みの答え方をされていたが、何故あの時代に「モダニズム」がテーマだったのか?という意味で解釈すると、学問の中心を組み立てるとか、基礎を掘り下げるとかして、新しいメインストリームを作ろうとすると、ポストモダンじゃなくてモダニズムに行き着くのではないかと思う。(雲の上の方々の議論に割って入る不遜な態度なのを自覚した上で無責任に書いてみる)


ある意味、ポストモダニズムは多元文化主義で、ある種、多神教的で、曼荼羅のように一枚の絵の中に複数の神が描かれている仏教にも似ているし、東洋哲学的だ。元々、多神教的な日本に、(キリスト教徒のクリスマスを祝った後、正月に寺や神社に行く)ポストモダニズムを輸入するよりも、一神教的なモダニズムを輸入した方が、異文化に触れるインパクトは大きいのではないか、みたいなのが、ニューアカブーム末期の雰囲気だったような気が。


あの文脈の中で京都学派というキーワードは、何重もの意味を持つと思う。ニューアカブーム自体、柄谷さんが浅田さんの中に京都学派を見つけてスタートした要素がある。京都学派のイメージとして、学問のジャンルを横断することで新しい世界観を示すとか、西洋思想の輸入だけでなく、そこに日本独自の思想を加えて輸出しようとしたとか、東京を中心とした学問の主流に対する対抗文化だったとか。ニューアカブームを第三期京都学派みたいなとらえ方をして、輸入元の欧米のポストモダニズムと、どこが違って、どういう消費のされ方をしたのか「週刊本−卒業〜kyon×2に向かって」http://www.amazon.co.jp/dp/4255850208/ やEv.Cafeを参照に語るとか面白い気がする。


(第二期)批評空間が面白かった理由の一つは、巻頭討論のホストが二人いて、司会進行役の浅田さんと、冗談を言って笑わせたり、ゲストが聞かれたくないであろうことをあえて聞いたりする柄谷さんの二人で、ボケ&ツッコミの漫才形式でホストをして、そこに学術書を出版してその本の宣伝に来ているゲストが何人か交えることで、娯楽性もある学術的トークが展開されていた部分。ホストが一人だと、ゲストが聞かれたくないことを聞いたら、誰もゲストに来たがらないし、ゲストのお世辞ばっかりでも読者は面白くない。単純に二人一組のシステムが良かった気がする。