オタクからのサブカル批判

http://d.hatena.ne.jp/kidana/20140511
で書いた「ハイカルチャーポップカルチャー、アカデミズム/ニューアカデミズム、オタク=ナード/サブカル=ギーグの差異について考えたりする。」の続き。ある意味、http://d.hatena.ne.jp/kidana/20140613とも絡むが。
ユリイカで「オタクVSサブカル」が特集されたことがあった。
http://www.amazon.co.jp/dp/4791701372
オタクとサブカルは、両方文系・非体育会系・非理系で、外から見ると同じに見える。サブカルを象徴するのは、80年代の雑誌宝島やオリーブやPOPEYE、いまだとクイックジャパンブブカ辺りだろうか。

ユリイカでオタク側からサブカルが批判されていて、その文脈で言えば、私はサブカル側になるわけで、批判されてる側として読んで、割と正しい批判だと思うところが多い。サブカル批判を一言で言うなら
「オタクをオブジェクトレベルに置いて、メタレベルから批判するんじゃねぇ」てことだ。
オタクは漫画なら漫画、アニメならアニメが好きで、他のジャンルには手を出さず、狭い専門性の中で、就職先として漫画家のアシスタントやアニメーターを選んで、厳しい徒弟制度の世界に入門し、師匠の下でかばん持ちから、雑巾がけから何でもして、上意下達(じょういげたつ)の世界で頑張っている。上の人間がこうだと言えば、「はい」と言って頭を下げる。自分の意見をはさむなんて許されない世界だ。

そんな中、サブカルの連中は、アニメも特撮映画も観て、漫画も読むし音楽も聴くし、ライブハウスのロックコンサートにも行けば、アイドルイベントにも行くし、TVゲームもすれば、ファッションにも興味があって、流行りのデートスポットをドライブすることもあれば、女の子ともデートする。何なんだお前らは、君たちに専門性はないのか。就職先もテレビ局とか広告代理店とか雑誌編集者とかで、オタクのクリエーターを使う側に回って、上から目線で批評してんじゃねぇーよ。「もっとかわいい女の子とか、かわいいペットとか売れそうな要素入れて、売上伸ばせないですか?」だと?「だったら、てめーが作れや!」

みたいな話なんですよ。平たく言うと。これはこれで、色々難しい問題はあるのだけれども、もう少し話を限定して、アカデミズムの世界を見ると。

**学史や**学概論を書くサブカルと、**学の中でも色々細分化した学説があって、それぞれの細分化された学会内で、月刊や隔月刊で学術誌を出しているオタクがいる。大学で言えば、1〜2年の教養課程で習うのが、**学概論で准教授辺りが教えていて、3〜4年の専門課程で習うのが**学の中でもさらに専門化した学派の学説で、准教授より偉い教授が教えていたりする。「オタク/サブカル」が「専門/教養」になるのだけれども、私が行った文系の学部でも教養課程で、体育の授業があったり、医学史の授業があったりした。プロにならないことを前提に学ぶことを教養という。文系の学部から医者に成ったり、プロスポーツ選手に成ったりする人はほぼいない。直接的な職業訓練ではないのだが、そこで学んだことが、職場において間接的に生かされることがあるのかも知れないというのが教養だ。

医学部を出たお医者さんや医学部の教授なんかは、いわゆる知識人だけれども、専門外のことに関しては、興味はあっても、そこまで詳しくないかも知れない。文化人類学とか考古学とか哲学とか社会学とか数学の基礎論や非ユークリッド幾何学とかに興味を持って、専門家向けじゃない一般人向けの本を、講談社学術文庫ブルーバックスか何かで手に取って読んで、理解を深めることもあるかもしれない。一方で、専門外の読者に向けた概説書の類は、専門家から批判されることも多い。専門家から見れば、概説書に書かれていることは、専門家内では正しさを証明されて権威になった30〜40年ぐらい前の古い学説で、専門家内で読まれている学会誌の今月号の特集と比べて、情報が遅いとか、現役の若い研究者の研究成果を反映してないとか、素人向けに分かりやすく説明するため、難しいところをはしょって説明しているとか、色々ある。

90年代に文芸誌の編集者が「J文学」マップを描いて、90年代の純文学の見取り図を作ったことに対して笙野頼子が勝手にラベリングするなと反論したのが判りやすい例かもしれない。
http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2099144
アイドルのようなザ・芸能人の場合、知らない人からレッテルを張られたり、ラベリングされたり、言及されたりする覚悟が出来ているが、学者や知識人的な人の場合、ある種の何とか学史の中に整理されること、その物を嫌う場合がある。分類内容に対する批判でなく、分類すること自体を批判している。要約や概説を書くなという批判だ。何とか学概論の中で、A学派、B学派、C学派に関する記述があって「A学派はAと言っているのに、要約ではDに成っている」という批判ではなく「A学派の学説を無断で要約しレッテルを張っている。著作権違反だ」みたいになると、**学史、**学概論自体が書けなくなる。**学史は**学の豊かな研究成果を、剽窃したオリジナリティゼロの盗作なのか?**学史と言っても、一定の視点・立場に立った史観があって、異なる視点・異なる立場から**学史をまとめれば、全く違う歴史を書くことも可能で、そこには書き手の問題意識やメッセージがあるわけで、オリジナリティゼロの盗作とは限らない。むしろ**学史の書き手に独自の史観があるからこそ、書かれた側は怒る。http://d.hatena.ne.jp/kidana/20110707**学の学術書の表紙と著者近影と書名と著者名と値段と出版社名を書いただけの本なら批判は来ない。**学の中で「A学派が衰退し、B学派が台頭してきた」といった独自の史観があるからこそ、A学派からの批判が来る。でも、**学の中で何故A学派が衰退し、B学派に取って代わられたのか?みたいな話の方が建設的だし、読み物としても面白い。

「ABCそれぞれの学派が出す学会内の月刊学術誌があれば、**学全体を見渡す**学史なんていらないんだ」という見方は、専門外の人間への説明責任を欠いている。**学内でさらに細分化されたジャンルのうちの一つA学派の月刊学術雑誌に載っている記事は、今月の最新の情報だけど、3年後には古すぎて役に立たないことが多い。でも、**学全体を見渡す概論や学史は、20〜30年経っても、それほど古びない。**学を職業としていない部外者が、教養として知る分には、今月の最新情報より、大雑把な見取り図の方が役に立つ。