東浩紀さんが政治を語る
東さんが選挙権を得た最初だか二回目だかの選挙の時に、初めて自民党が下野して細川内閣が発足した年で、自民VS共産の55年体制が崩壊し、第三極が注目されたので、同世代の人達は、自民と共産には投票しない人が多いという話で。
公の場で政局の話をすると、デメリットしかないので、知識人は基本、政策立案の話をする物だと思うのですが、政局について、東さんより2歳年下だが、ほぼ同世代の自分が思ったことを書いてみる。
1955年体制は「自民党&公明党VS社会党&共産党の二極で、疑似的な二大政党制の形をとっていた」というのが一般論ですが、一般論をくつがえして、別の見方を提示したい。55年体制とは「自民党右派(清和会)VS自民党左派(経世会)の二極で疑似的な二大政党制の形を取っていた」のではないかと。これに少人数の自民党中道派(宏池会)を入れた三大派閥で自民党政権は回っていた。
日本の大衆が左翼化した1960年代から70年代にかけて、60年安保・70年安保の時代に、大衆が支持した左翼政党は、社会党でも共産党でもなく自民党左派の経世会(田中角栄)だったのではないか。
外交においてアメリカ追従の清和会と、自称全方位外交、悪く言うならアジア(中国・韓国・北朝鮮)外交重視の経世会と、大蔵官僚出身者が経済学に基づく経済政策を行う宏池会の三派があり、清和会に言わせれば、経世会も左翼だが、経済学に基づく経済政策=計画経済の宏池会も左翼だと。
近年の日本の総理で言えば、安倍さんは清和会系、岸田さんは宏池会系、石破さんは経世会系になる。清和会系の企業としては読売ジャイアンツの読売グループ、西武ライオンズの西部グループ、ダイエーホークスのダイエーグループが有名所。
『大宰相 田中角栄 ロッキード裁判は無罪だった』(田原 総一朗)|講談社
ロッキード事件はアメリカが経世会=田中角栄を潰すために仕掛けた罠で、角栄はロッキード社から金を受け取っていなかったという説がある。
日本のバブル経済はプラザ合意(1985年)によって作られたが、経世会を切り捨てた清和会に対するアメリカからのプレゼントだったのではないかとか
1994年の選挙制度改革は、自民党から経世会を追い出して、経世会を弱体化させる目的があったのではないかとか
1994年に日本社会党の村山総理が誕生しても、アメリカからの圧力が、田中角栄や小沢一郎に対する圧力と比べ、弱かったことから、アメリカは日本社会党よりも経世会を怖れていたのではないかとか
1994年前後の「朝まで生テレビ」で、選挙制度改革をやって、中選挙区から小選挙区にして、自民党を二つに割り、清和会と経世会の二大政党制で、やって行こうとして、経世会系の小沢一郎の新党を作ったが、アメリカからの圧力に負けた小沢は、ある時期以降、経世会系の新党を内側から壊す壊し屋になり、アメリカに魂を売ったのではないかとか
色々言える。
日本におけるリベラル政党を語る時に、日本社会党、日本共産党でなく、自民党左派(経世会)を語るのが、適切なのではないかと提案したい。
田中角栄が活躍した1970年代は、中国がソ連と仲違いし、米国や日本にすり寄った時期で、米国が米中国交正常化に向けて動く中、角栄は、米国よりも早く中国との国交正常化を実現するべく、奔走した。それが当時の正義であった。
いま、この国際情勢の中で、経世会系の石破総理が、中国外交重視の政策を掲げるのは非常に無理がある。ロシアのウクライナ侵攻を、ロシア側に立って後押しする中国を支援するとは、表立って発言できない。
外国人排斥を掲げる参政党が世論調査で高い支持率を出したことに関し、リベラル知識人の立場から東さんは、参政党を批判し憂うのですが、参政党支持者が排斥しようとしている外国人は、具体的には中国人であり、中国外交重視の経世会系自民党である石破政権に対する批判票を投じる先として、参政党の政策がマッチしたと思われる。
中国で「日本に行って生活保護申請をすれば働かずに良い暮らしが出来ますよ」というCM動画が流されているという真偽不明の噂がユーチューブ界隈で流れ、大学院進学用の政府の補助金を多くの中国人が申請し、日本の永住権・参政権・日本国籍を、日本語を学ぶ気が無い中国人の団体が大量に取得し、日本が中国に乗っ取られるという噂が流れ、清和会が唱えるには過激すぎる政策を、清和会の下請け機関として参政党が唱えて、議席を伸ばした。背景としてアメリカ政府や清和会の後押しもあったでしょう。
私は参政党支持者ではないが、参政党支持者が「外国人排斥」を唱えていると言うのは、話を盛りたいマスコミ側の言い分であって、日本に対して浸透工作をしてくる中国人スパイを排斥したいというのが参政党支持者の言い分でしょう。
街には有線の音楽が流れている
メロンを栽培するときに音楽を聴かせると甘くておいしいメロンが取れるという実験結果がある
スーパーやコンビニでは音楽が流れている
人間に音楽を聴かせると、甘くておいしい人間が育つ
俺たち人類をメロンだと思っている奴らがいる
人類を食べようとしている宇宙人は、既に地球で活動をしている
自然科学VS人文科学
ポストモダニズムに対する批判の中で最も世間を騒がせた有名な騒動はソーカル事件でした。
ポストモダニズム系の学術雑誌に、アラン・ソーカルがポストモダニズム系の専門用語を誤用しまくった論文を書いて投稿したら、査読を通って、その論文が掲載された。
ソーカルはその論文の中で、ポストモダニズム系の学者が書いた論文を数多く引用し、彼らの多くが数学の専門用語を誤用していることを指摘している。
東浩紀はソーカル事件よりも「サイエンス・ウォー」という著作の方がより的確だとして、そちらを推薦している。
サイエンス・ウォーの前半3分の2ほどは、ポストモダニストや人文科学系の学者が論文の中で数学の専門用語を誤用している問題を扱っている。後半3分の1ぐらいのスペースを使って、大衆側からの知識人に対する嫌悪感を書いている。活字や書籍を読んで、理屈を言う連中ムカつくよね、という世間のムードを扱っている。
ソーカルとサイエンス・ウォーに共通するのは、数学者がポストモダニスト・人文系の学者に対して、人文科学は数学とは別ジャンルの素晴らしい学問分野なのだから、無理に数学の難解な概念・専門用語を使わずに、人文科学として優れた論文を書いてくれれば良い、としている所だ。数学の専門用語を権威付けや飾りとして使わないで欲しいという話だ。
東浩紀の哲学科における初期の専攻は科学哲学で、反復可能性、反証可能性などの話を扱っている。最新の著作である「訂正する力」も反証可能性のある物だけが科学だとする科学哲学の話をしているように見える。
水を電気分解すれば、水素と酸素が得られる。これは、いつどこで、誰がやっても、同じ結果が得られる。このような再現性の高い、唯一の正しい答えを、人文科学の分野や小説の読解などでも求められることが多く、結果、数学の概念を誤用した最先端の文芸批評、批評理論が作られる。
ポストモダニストが発した二つの有名なフレーズは、調度この対立を書いているように見える。ニーチェの書いた「神は死んだ」とレヴィ・ストロースの「人間は死んだ」。人文科学は英語でヒューマニズム。人間の死は、人文科学の死を指している。「実存主義はヒューマニズムである」と言ったサルトルとの論争の中で、主観的な人文科学が死んで、客観的で数学的な自然科学のみが残るとレヴィ・ストロースは書いた。
ニーチェの神の死は、逆で、人間個人個人の主観は皆、異なっていて、チンパンジーにはチンパンジーの主観があり、微生物には微生物の主観がある中で、神のみが客観的真実を知る者とされてきたのだが、神の死を宣言することで、客観世界は死に、主観的な解釈のみが乱立する状態を宣言した。
主観と客観の対立は西洋哲学の初期から存在していて、古代ギリシャ人が描く世界の図は、半球状の亀の背中に世界が存在していて、地球が動く球体であることを古代の知識人は知っていたのです。地動説や地球球体説は自然科学的な計算の中から出てきた客観的答えとして存在している。にも関わらず私たちの主観は、地面を平らで動かない物として認識している。その主観と客観をどう一致させるのかをめぐって西洋哲学史は進んでいく。竹田青嗣的な西洋哲学史は、そういった観点でつむがれる。
私個人が哲学に興味を持つきっかけとなった本の一つは「まんが 老荘の思想」です。
1m立方の木の立方体があったとして、それに腰かけるとイスに成り、それの上で文字を書くと机に成り、敵にぶつけると武器に成り、海に浮かべると船に成り、燃やすと燃料となる。その木の立方体は、客観的事実として何であるのか?イスなのか机なのか武器なのか船なのか燃料なのか?唯一の正しい客観的事実は存在せず、私がその木材に、どういう欲望で接するかによって、木材の意味は変わってくる。
という話が漫画内の老子の話として出てきた。ハイデガーの用具連関と同じことを老子は書いていた。ハイデガーは自分の書斎に老子の書を飾っていたというから、老子を読んだ上で「存在と時間」を書いたのだろう。
ビートたけしの「TVタックル」に、お馬鹿な若い女性タレント役として小倉優子が出ていて、フィールズ賞を取った数学の大発見や、遺跡の発掘によってくつがえった古代史の定説や、物理学者が発見した未知の元素が、紹介されたときに、小倉優子が
「それって、何の役に立つのですか?」と言います。
「それによって、新商品が発明されて、こんなに便利に成りましたという話なら嬉しいのですけどね」と言います。
その発言に対して周囲からブーイングが浴びせられ「話が理解できないなら黙ってろ」と言われたりするのですが、これは用具連関の話な訳です。
自然科学の大発見がそれ自体では大衆に理解されず、実用化され、人々の欲望を満たす商品として生活に入り込んで初めて、理解されます。何の役に立つのか分からない世紀の大発見を、商品化して世に送り出すのは人文科学系の文系職の仕事なのです。
文系学部卒が民間企業に就職すると営業職になります。営業も金融系のノルマの厳しい所もあれば、業種やポジションで仕事内容がかなり異なると思いますが、仮に日本の製造業の一次下請けだとしましょう。親会社が自動車メーカーで、そこにガラス窓を納品する子会社で、親会社はガラスを子会社経由でしか買わない、子会社は親会社以外にガラスを売らない、親会社と子会社が同じ船に乗っている。
子会社のエンジニアは親会社が欲しいガラスを開発する。子会社の営業は親会社に出向いて、どういうガラスが欲しいのかリサーチする。
日焼けしたくない女性のために紫外線カットのガラスとか、冬に雪で凍結した窓ガラスに電気線で温めて雪を溶かすガラスとか、色々な機能がある中で。
親会社のエンジニアは燃費の良い車を作りたいから車体は少しでも軽くしたい。
「とにかく軽いガラスが欲しい」と開発部の人間は言う。
デザイン部のデザイナーは、今まで無かったユニークなデザインの車を作りたい。カプセルホテルや潜水艦の窓、宇宙服の頭部にあるような半球状の出っ張ったガラスで、ツインビー的な宇宙船デザインのガラスが欲しい。その場合、運転席から見た外の景色が虫眼鏡のように屈折してはいけないので、屈折率の低い、歪みの無い半球状のガラスという難しいオーダーに成る。
経理部の人間は少しでも経費を削減するのが仕事だから、安いガラスが欲しい。
部署によって、みんな言う事が違う中、営業が各部署と話した内容をまとめて、折り合いの付く妥協点はこの辺りというのを自社のエンジニアにオーダーする。
金を支払う顧客に近い上流工程を人文科学系の営業がやっている以上、自然科学系のエンジニアは文系の指示に従う。社内の上下関係において、人文系の方が上という場面はある。アップル社のスティーブ・ジョブズはプログラムを書く能力を持たないが、理系エンジニアのウォズニアックより社内の立場が上だ。
アメリカで大学の研究室が特許を取得できるようになったことで大学の理系研究室のトップの仕事が、国や自治体や民間企業に働きかけて研究予算を引っ張ってくる仕事に成って、実際の研究や実験は学生や院生しか出来ないという話があって、日本の大学もそういう方向へ進んでいると。
機械を管理するのが理系職で、人を管理するのが文系職だとすると、役人に働きかけて予算を引っ張ってくるなどの感情労働は、文系のフィールドです。小説文を読んで「登場人物のAさんは、この時どう思ったでしょう」と問われるのは国語の問題で、人の心を察知して、人心掌握するのは、文系の専門分野です。
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オルガン学派の哲学書の読書会で課題図書に多いのが「世界の名著」シリーズです。理由は、値段が安く、絶版になっておらず入手しやすく、翻訳も質が高いからです。世界の名著シリーズは一冊に、特定の哲学者の主著が何冊か入った合本になっています。
世界の名著に収録されている著作を見ると、その哲学者の一番有名な著作でなく、二番目三番目に有名な著作のみが収録されていることがあって、一番有名な著作が絶版で、手に入らず、読めるのが二番目三番目のみだと、気落ちもするし、怒りも沸きます。
絶版に成っている一番有名な著作を古本屋で買い、読み始めると、難し過ぎて意味が分からないことがあります。A=Bを証明するために、その根拠となる部分を、哲学の専門家が、哲学の専門家に向かって書いています。専門用語も多いし、その本の中でしか使われない特殊な表記や記号が出てくると、お手上げです。そもそも、A=Bを証明する動機が分からない。それが証明できたとして、何に成る?その証明が世の中の役に立つのか?「A=B」が証明されることによって、世の中の何が変わるのか?
読書と理解をあきらめ、世界の名著シリーズに収録された、その哲学者の二番目三番目に有名な著作を読むと、その本は、専門家向けの主著を書き上げる前に書かれていて、このような研究テーマで研究論文を書きたいから、予算を付けて欲しいという内容です。国の予算を握っている役人は、哲学の専門家ではなく、哲学分野に関しては素人です。素人に向けて、素人に分かる言葉で、自分の研究テーマの目的や役割や社会的意義について書いています。
A=Bという証明がなされると、社会がどう変わって、国に、どういった経済効果をもたらすのか、その効果をもたらすのに必要な予算は、経済効果の何十分の一で良い、物凄く効率の良い投資なので、是非、研究予算を組んで頂きたい。
一流の科学者は、専門家向けに難しい論文を書くから、一般人向けに、かみ砕いた紹介文や要約を書けないので、サイエンス・ライターの仕事が成立していると思っていたが、ライターいらない人もいる。本人が、素人相手にスピーチしたときの原稿が、完璧すぎて、主著が絶版に成っても、こっちの雑文が残ることがあるのだなぁとか。
大学図書館に入っていたハイデガー全集をたまたまチラ見して読んだ、ハイデガーが市井の素人の前でするスピーチとか、こういう物の言い方をすると、国や企業から予算がもらえるのだなぁと感動したことがあります。
ニューアカデミズム=ニューサイエンス
ニューアカとは何か?を語る上で、宝島系の雑誌記事だったと思うが面白い解説があったので紹介してみたい。
学術的には、構造主義・ポスト構造主義などのポストモダニズムの日本版がニューアカデミズムになる。
それとは異なる解釈で書かれていた話で。1970年代に出版業界の印刷術が活版印刷から写植印刷に変わった。それに伴って、写真やイラストなどのグラフィックを中心としたグラフ誌の登場が期待され、科学雑誌においてもニュートンやウータンなどの写真雑誌が登場し、ニューサイエンスと呼ばれた。それの人文科学版がニューアカデミズムだ。
「構造と力」の巻末に付いているプレモダン/モダン/ポストモダンを示す様々な図像、90年代にアンチからバッシングされまくった「クラインの壺」の図や別冊宝島の「わかりたいあなたのための現代思想・入門」に出てくる様々な図像、同時代の吉本隆明の「マス・イメージ論」「ハイ・イメージ論」に出てくる図像、「イラスト西洋哲学史」といったそのままな本まであって、図像から哲学に興味を持った自分としては、哲学の抽象的概念を図像化したのがニューアカデミズムだというのは、腑に落ちる部分がある。
ちなみに、いま「ニューサイエンス」を英語と日本語で検索したが、意図したようなニュアンスの語は出てこなかった。
科学者が専門家向けに書く学術論文や学術誌ではなく、一般素人に向けた科学雑誌の場合、サイエンス・ライターが文章を書く。難しい理屈抜きに分かりやすく面白く読ませるために、話を単純化したり、多少の嘘や誇張が混じることもある。
人文科学版のサイエンス・ライターがニューアカだったと言っても、それほど間違ってないように思う。「構造と力」にしてもチャート式をうたっていて、未邦訳の海外の思想書を短く分かりやすくまとめて紹介するという形式に成っていて、専門家に向けたオリジナルの学術論文という建前には成っていない。その「構造と力」さえも、中学生高校生が読むには難しいので竹田青嗣などが、「構造と力」を読むための解説書を書くといった何段階もの書き換えや解説が積み重なっていく。
でんじろう先生のサイエンスショーやGENKI LABOの人達は、査読の入った学術論文を年間何本書いているのか?みたいに言えば、狭い意味での科学者やエンジニアでは無いと思うが、一般の人たちに科学の面白さを伝えるという意味で、良い仕事をしていると思うし、人文知の最先端を面白おかしく世間に伝えたニューアカは意味のあるムーブメントであったと思う。
哲学の黄昏
東浩紀雑談3 チャンネル登録よろしく的な雑談 - YouTube
ゲンロンカフェのライブ配信を見ながら、ニューアカデミズム・ポストモダニズム・ヨーロッパ近代哲学・人文知の存在意義に対して、疑問を投げかける東浩紀さんに、無能な自分が反論してみます。
中学高校時代にニューアカにどっぷりハマった三流大学卒の自分と、東大の大学院で科学哲学や表象文化論を専攻した東浩紀さんでは、当然色々、違っていて。
1980年代初頭にニューアカブームがあって、1990年代に、その反動でニューアカ批判・ポストモダニズム批判が巻き起こって、90年代に院生だった東さんは、大学内のカリキュラムで、ポストモダニズムを批判する論文を外国語で学ばされたわけで。
あの時代の浅田さんのルックスや声は、話の内容が理解できなくても、映像的にカッコ良いとか、声が音楽的にカッコ良いのが、伝わる存在だった。
「構造と力――記号論を超えて」で記号論という語が出てきた。これは企業(IR:インベスター・リレーションズ)や商品のブランディングをする上で、必要となる理論で、高度消費社会における記号消費・物語消費を後押しする理論とされていた。田中康夫の「なんとなくクリスタル」でブランド名という記号を読解し、消費する姿が描かれ、糸井重里氏によるコピーライターブームが起きていた。
ノンブランドの千円の服に、ブランド名を付けて、一万円、十万円と価値を上げていくには、「構造と力」を読んで、記号論の基礎ぐらいは知るべきで。会社員としてホワイトカラー職に就き続けるには、ニューアカ、浅田彰の本は読んでないと難しいですよねという時代でした。
学問や哲学に興味が無い俗人でも、就職活動期には「面接の達人」を買うのと同じぐらい、「構造と力」は読めなくても買う本だった。
哲学は儲からないと世間から思われていると東さんは語っていますが、80年代のニューアカはコピーライターとか企業コンサルのボス的存在として、儲かっているイメージな訳です。
ボランティアはブルーオーシャンにつながっている
偉大なるゲンロンカフェの東浩紀さんと上田洋子さんのユーチューブライブ配信に、無粋ながら反論・揚げ足取りを入れて、私にも多少の能力があると示したい。
お二人が言うには、ボランティアよりもはバイトの方が社会を知れるというのですが、いささか古い世界観なのではないかと思います。
今のアメリカの大学入試は、ペーパーテストで入学する人は少数で、ほとんどは自己推薦入試、OA入試と言われています。自己推薦文と内申書と面接のみで、ペーパーテストは無い。日本でも2020年度の入試で入学者の50%がペーパーテストで、残りの50%が自己推薦です。(文部省調べ)
学生時代のどのような経験が自己推薦で高く評価されるのか?会社を起業して経営者として成功しているのが一番高く評価されます。高校生で起業して成功するというのは多くの場合、本人でなく親の力であって、親が複数の会社の経営者で、開店休業状態の会社を誕生日プレゼントで親からもらって、経営を始めた。みたいなのが多いのですが、中村光一氏のように高校生でプログラマーとして数百万稼ぐという人も、ゼロでは無い。
他にはバイトやボランティアの経験も評価されます。就労経験を積むことで、今やっている勉強が、就労する上でどう役に立つのかを、つなげて語れる子が大学に合格します。
ボランティア経験がバイト経験より優れている点としては、起業する際に、確実にもうかるブルーオーシャンを見つけられる点です。ボランティアがいるという事は、
・ボランティアを必要とする人達がいて、人手に関して需要=市場がある。
・ボランティアで回っている=企業がまだ参入していない。
その市場に企業として参入すれば、ライバル企業がいないので市場を独占出来ます。
ロボットエンジニアの吉藤健太朗さんが、久保田憲司さんの指示で、車いすの方の介護をするボランティアに参加して、右車輪と左車輪の段差があっても座面が地面と平行に成る車いすを開発しました。
既に産業化されているバイトの現場に入るよりも、産業化されていない未開拓の市場でボランテイアをした方が、起業して成功する可能性が高い。
自己推薦で大学入試を受ける時代において、ボランティアの意味は奉仕から、マーケティングに変わっていると思うのです。
化学調味料を摂取すると風邪で2~3日寝込む体質
世の中には化学調味料を毒として極端に避ける人達と、化学調味料を良しとする人達の宗派争いがあって、ネットを賑わしているが、化学調味料の中にも原材料が様々あって、化学調味料を作る製法にも色々ある。
大手化学調味料メーカーのそれは、さとうきびに時間を掛けて発酵させた物だが。
流行りの化学調味料入りハイテク醤油は大豆に酸をかけて植物性たんぱく質を溶かした物に成る。虚弱体質の私は、ハイテク醤油を2~3滴でも摂取すると風邪で寝込む羽目になる。一説には大豆を溶かす酸が醤油内に残っていて、人間の体内に入った時に、人間の動物性たんぱく質を溶かしているという疑惑もある。
最近は外食で回転寿司に行っても、醤油がハイテク醤油しかない場合もあり、体質的に無理な私は、不便さを感じる。