教養について

私にとって教養とは、あるコミュニティーに所属・参加するための許可証のようなものだ。 例えば、mixiB’z コミュに入ろうとしたとしよう。そこに入って、自分でスレッドを立てたりするには、最低限B'zに関して興味を持っていることが条件となるだろう。出来ればB'zの曲は全部歌えるとか、B'zの曲は全部持ってるとか、DVDなら「あのDVDのどの場面」と言われたら「ああ、アレね」とすぐに反応できるとか、そういう方がより相応しいにしろ、最低限、B'zに興味があり、これからB’z を知ろうとしていることが条件となるだろう。逆に、B'zコミュで、B'zとまったく関係のない話を延々続けたり、B'zと関係のないスレッドを立てたりすれば、荒らしとみなされてそのコミュニティーから強制排除されるだろう。このとき、B'zに関することがコミュニティー内で教養として機能する。


教養を身に付けることが何の役に立つのか?自分の属性と異なる集団とコミュニケーションが取れるようになる。これは色々な意味で役に立つのではないか。例えば、中学生ぐらいで、異性としゃべりたいが共通の話題がないという状況だとしよう。そのとき異性が読んでいるであろう漫画、相手が女性であれば少女漫画、男性であれば少年漫画を読んで、相手と共通の話題を持ち、相手のコミュニティーに入っていくということをしなかっただろうか。


社会人一年目の新入社員が五十代の上司とカラオケに行ったとしよう。相手は自分が10代20代のときに聴いた30年から40年前のヒット曲しか知らない。このとき、上司の好きそうな演歌やGSについて調べて、当日までに一・二曲歌えるようにしておくのが教養だ。そうやって、上司との関係を良好にできる教養があれば、仕事上でも色々と有利だろう。例えば、次のステップとして、上司から取引先とのゴルフや麻雀に誘われるかもしれないし、そこでゴルフや麻雀を覚えればさらに、人脈が広がるかもしれない。


あるコミュニティーが要求する教養の量と、コミュニティーを形成する人員の量は反比例する。B'zのファンが集まるコミュニティーがあって、そこで要求される教養が「B'zを好きなこと」であったとしよう。B'zの曲は知らなくても、テレビで見て、ポスターで見て、B'zカッコ良い、B'z大好き、そう思っただけでも、B'zファンになれるコミュニティーが一個ある。もう一つ、B'zの楽曲を理論に照らし合わせて論じていくコミュニティーがあったとしよう。B'zのどの曲は、どういうコード進行になっていて、音階がどうで、スケールがどうで、音像がどうで、を論じるコミュでは、B'zの曲をある程度耳コピーして譜面に起こして分析し、音楽理論の専門用語を使って論じることが要求される。当然、高度な教養が要求されるし、その教養を共有するコミュニティーの人員は、B'zファン全体と比べると少数と成るだろう。


Aさん「B'zのこの曲のコード進行は〜〜」
Bさん「は?あんた馬鹿じゃないの?コード?何それ?Cセブン?なに?意味ふめぇ〜〜〜〜」


というやり取りがあったとしよう。B'zファンコミュにおいては、Aさんが荒らしとして排除されるだろうし、B'zを理論的に論じるコミュではBさんが荒らしとして排除されるだろう。


英米系の分析哲学と独仏系の哲学の一番大きな違いは、そのコミュニティーに要求する教養の量だと思う。英米系の哲学は基本的に英語を使う。英語は世界で最も多く使われている言語で、セカンド・ランゲージとして最もよく使われる言語だ。日本語の分からない中国人と、中国語の分からない日本人が話をするとき、お互いに片言の英語でしゃべる。そういう使われ方をする言語だ。母語として英語を使う人の数よりも、セカンドランゲージとして英語を使う人の数が増えることで、セカンドランゲージとしての英語が正しい英語として、ファーストランゲージに影響を与えるということが起きている言語だ。


英語を母語としている人は外国語を覚えなくて良いから楽だよね。という話ではない。英国のクイーンズ・イングリッシュから、米国のヤンキーズ・イングリッシュがメインになり、そこからさらに文法が簡略化された黒人英語が、正しい英語になりつつある。日本でいえば、ゾマホンボビー・オロゴンのしゃべる片言の日本語が正しい日本語になるようなものだ。ファースト・ランゲージとしての豊かな表現やニュアンスが禁止され、より記号的なセカンドランゲージとしての英語が正式の英語になる。このとき、英語のライバルは、数式や化学反応式になってくる。「This is a pen.」が通じる英語圏よりも「1+1=2」が通じる数式圏の方が、より広く構成員数も多いとなれば、世界語としての英語はより数式に近づこうとする。自然言語としての英語から離れて、数式や化学反応式や幾何学の証明やプログラミング言語などと同じ、人工言語(=世界語)としての英語というものが立ち上がってくる。こちらの方がより広いコミュニティーで通用する(=教養が少ない)からだ。


対する独仏系の哲学は、より豊かで高度な教養を要求する。ハイデガーが、個々の単語の意味を、古代ギリシャにまでさかのぼったように、古代ラテン語だの古代ギリシャ語だの古代ヘブライ語だのの語源についての教養を要求する。それによって、分析哲学にはない豊かな内容を表現できると彼らは考える。


「4+9=13」という式を見よう。4は日本語で死を意味する語と同音異義語で、死の象徴として、不吉なものとして扱われ、9は日本語で苦の同音異義語であり、13はイエスキリストが磔にされた13日の金曜日を連想させる不吉な数字としてキリスト教圏では扱われる。といった個々の数字の意味が、数式内部においては取捨され、13は数字の13であり、それ以上の意味がない。というのが分析哲学的だと私は感じる。


教養を最小限にとどめようとするのか、最大限に高めようとするのかの違いが、独仏系と英米系の違いだと感じる。


文学において、星新一の「点化」という技法に興味があった。一文が短く、主語+動詞+ピリオドという、非常にシンプルな文型の羅列でできており、一文の中に主語が二つあったり、動詞が二つあったり、句や節や関係代名詞が入り組んでいたりすることのない、中学生の英作文のような、小学生の作文のような単純な文型であること。固有名詞や情景描写がなく、物語の構造がむき出しで描かれていること。教養のない説明的な文章であることが魅力的であった。


文学において教養のある文章の一典型が、季語辞典・歳時記を引いて作られた俳句だろう。ある季語を引けば、その季語を使った有名な句がいくつか出てきて、その解説も載っており、その有名な句に対する本歌取り反歌・返歌・パロディ・パスティーシュ文体模写)・オマージュ・リスペクト・インスパイアとして、句が作られる。その句を受け取る側も、同じ季語辞典・歳時記を読んでいて、その季語を使った類似する俳句を教養として当然知っている事を前提として作られる。万葉集に生活を歌った素朴な歌が多く載せられ、古今和歌集には万葉集で使われた技法がより洗練された形で使われ、新古今和歌集では、先行する和歌集に対する本歌取りが多く使われるという形で、先行する和歌集に対する和歌が増えていくのと似ている。その和歌集をより再利用しやすいよう、季節・季語ごとに索引を付け並べなおしたのが歳時記であり、季語辞典だ。これは東浩紀氏の言葉を使うならデータベースだと言えるだろう。


柄谷行人吉本隆明などを読んでいると、ある時期、1970年代後半から80年代ぐらいまでの純文学とは、文学全集をデータベースにして書かれた文学を指しているようだ。つまり、純文学というコミュニティーに所属するためには、文学全集を教養として読んでおく必要があったわけだ。その教養の中身が80年代のポップ文学辺りで少女漫画に変わり、J文学で映画に変わり、最近のライトノベルではアニメや美少女ゲームに変わったようだ。


教養(知識だっけ?)や権力は少なければ少ないほど良いが、なければ困る。と竹田青嗣は言っている。ある人間とコミュニケーションをとるのに、高度で難解な教養を大量に要求されてもしんどいし、かといって、文字や言語をまったく理解できない相手とコミュニケーションを取るのもまた困難で、できれば日本語をしゃべれる相手の方がコミュニケーションは取りやすい。