「純文学という概念はインチキだ」という批判

「純文学とは日本ローカルな概念で、ただのでっち上げだ」
という批判があって、それに反論したら
まあ、なんかこう色々ややこしくなって、それなりの交通整理をしないといけないのかなぁと。面倒臭いことですが、取りあえずやってみます。あと、私は別にそのジャンルの専門家ではないので間違い等はあるかも知れませんし、深い考察や洞察も無いことを断っておきます。


「純文学なんてインチキな概念でそんなものはないのだ」という主張に私が反論する時に、何が一番難しいかと言うと、彼らがその主張をするときに、純文学という言葉を使っているわけです。存在しないと言いながら、そういう言葉が存在して、現に「存在しない」と主張する側にも共有されている。つまり、純文学という言葉が国語辞典に登録されて現に今でも流通しているということを認めた上で「インチキだ」「存在しない」と言う。それに反論するには、辞書の純文学のページを指し示すだけではダメなわけです。では、彼らが何を言いたいのかを、私が推測して、それに答えるのですが、私が推測した彼らの主張と、彼らの言いたいことが、またズレて行く。これの繰り返しで結論が出ないのが現状です。


私の推測で「純文学=立派な物、大衆文学=駄目な物という二分法は間違っていて、純文学の中にも詰まらない物はあるし、大衆文学の中にも良い物はあるのだ」と彼らの主張を解釈してみます。「純文学=立派な物、大衆文学=駄目な物」という概念やイメージを持つのは単に無知なだけで、それは無視して良い。でも、純文学も大衆文学も同じ文学なんだから別けなくて良いというのは、違うと思う。「ブティックが立派なお店で、八百屋さんがダメなお店だという考え方は間違えている。ブティックの中にもダメな店はあるし、八百屋にも良い店はある。」と言われたら、そこまでは共感するけど、だからって八百屋とブティックを同じに扱えと言われても、八百屋にグッチは売ってないだろうし、ブティックに大根も売ってないし、同じ小売りなんだから別けて考えるなと言われても、小売り店の中でもさらにジャンルが分かれるわけで、同じではないでしょうと思う。


純文学なんて日本ローカルででっち上げた概念で制度的な意味しかないという論の一般的な骨子を書くと、
1) 純文学-大衆文学という制度は、菊池寛芥川賞直木賞を作ったときに、芥川賞を純文学、直木賞を大衆文学とした。菊池寛がでっち上げた概念で、大衆文学と純文学の内容的な違いは無く制度の違いにすぎない。
2) 安価な円本(いまでいう文庫本)や文学全集が発売されて売れた昭和の初めに、作家が協力してそれらに対する反対運動みたいなことをやった。そのときに、売れ線狙いの円本や全集はインチキで、俺達は本物の文学=純文学なんだという主張をした。文学全集は絶版になっているような昔のベストセラーの版権を安く買って、細かい文字で一冊に三冊分の小説を載せて一冊分の値段で売れば、通常の三分の一の値段で小説が読めるので、読者としてはかなりの価格破壊になる。出版社も、かつてのベストセラーで知名度のある小説ばかりを集めているから広告費もそれほど掛からない。でも、現役の作家にとっては、原稿料をもらって新作を書かなければいけないのに、昔の作家の昔の作品ばかり売れたのでは困るので全集批判として「純文学」というキャッチコピーを使った。そんなのは当時の文学者の経済的都合であって、文学的には何の意味もない概念だし、世界文学とはまったく無関係の、日本ローカルの概念でしかない。


この二つが一般的でかつ説得力のある批判になるわけです。厳密に言うと、日本で一番初めに純文学という語を使ったのは北村透谷ですが、いま日本で使われている純文学とはかなり異なる意味で純文学という語を使っているので、いま使われている意味での純文学という語の起源として菊池寛起源説を取った方が、話としては分かりやすいと思います。


1と2はそれぞれ連動していて、芥川賞が設立されたのが1935年(昭和10年)。円本ブーム・全集ブームがあった時期と重なります。それらのブームに対する批判として純文学という概念が打ち立てられた。文学全集を純文学ではないと批判するのは中々難しいが、新刊がハードカバーで出版される文学を純文学、新刊が文庫で出される小説を大衆文学と仮に定義してみます。文庫本はハードカバーに比べると歴史が浅く、ちょうどこの頃に誕生し、1970年代後半に角川が映画とのコングロマリット商法で文庫を普及させた時期に、小説=文庫本というイメージが定着します。この文庫本の普及と貸本屋の衰退が同時進行で進むのがこの時期です。昭和十年ぐらいに製本技術の発達で文庫本というものが誕生し、それに対立する概念として純文学も生まれたとするなら、外国に純文学が無いと主張するためには、外国には文庫本=ペーパーバックもないという話をしなくてはいけなくなります。パルプ・フィクションというのはペーパーバックで読み捨てられる大衆小説を意味する英語で、そういう言葉がある以上、その対義語である純文学に相当する言葉も英語圏にあるのではないかと思います。パルプフィクションと似た言葉として、ペニー・ドレッドフルダイムノベルストーリーペーパーなどがある。


ハードカバーと文庫本という製本上の違いは、小説の中身と関係ないじゃないかとなるのですが、ハードカバーで一冊三千円の本と文庫で一冊三八〇円の本では単価が約十倍違います。次にハードカバーの最低ロットが三千部で、文庫の最低ロットが三万部だとすると、そこに要求される読者の量・質・層が異なってきますし、必然的に小説の内容も異なってきます。


少し脱線して、純文学と大衆文学の制度的な違いを考えます。同じ新潮社からでも純文学雑誌「新潮」と大衆文学雑誌「小説新潮」が別に出ていたり、集英社からも純文雑誌として「すばる」、大衆文学雑誌として「小説すばる」が出ていたりします。文藝春秋だと純文学は「文學界」大衆文学は「オール讀物」、講談社だと「群像」、と「小説現代」。つまり掲載雑誌が純文学と大衆文学では異なります。


芸術的側面から純文学を定義した時に、一番的確な定義だと思うのは大江健三郎さんが言っていた「ジャンル小説じゃないもの」という言い方です。(General LiteratureとGenre fictionといった区分けだろうか)最初にこの定義を見たときには「それって、その他じゃん」とか「否定的定義しか出来ないのかよ」とか思ったのですが、この定義はそれなりに深いです。ジャンル小説とは何かという話になりますが、ポルノ小説・推理小説・恋愛小説・時代小説、それぞれにそれぞれのフォーマットがあって、その型に則った書き方がしてあるので、読者が商品に期待する一定の条件はクリアしているわけです。エロシーンがあるとか、謎があって解決があるとか、史実にのっとっているとか、読者の期待に応える条件が整っている。純文学は、読者の期待が定まってないし、読者の期待と方向性は異なっても期待を越える満足を与えなくてはならない。芸術的側面から見れば、そうだと思う。


ジャンル小説とそうじゃない物という言い方をしたときに、ジャンル小説を職人・工房・編集プロダクション、純文学を芸術家・芸能人・タレントとも言える。匿名性と記名性と言い換えても良いと思う。ジャンル小説コバルト文庫やハーレクインロマンスなど、ある特定のコンセプトで固まったレーベル・ブランドの下に複数の作家が本を書き、ブランドの名前で売る。極端なことを言うと、雑誌におけるデータマンとアンカーマンのような関係が、作家と編集者の間にある。雑誌を作るときに、複数のデータマンが集めてきたデータを、一人のアンカーが一つの文体に流し込む。実際には複数の人間が書いているが、文体や視点や切り口や考えがバラバラでは読みにくいので、あたかも一人の人間が書いたかのように、それらを統一する。読者は個々の記者のブランド力を信用して雑誌を買うのではなく、雑誌のネームバリュー、雑誌のブランド力によって雑誌を買います。


私は純文学は日本よりもむしろ欧米の方で栄えていると思います。私がそう感じる時の、純文学の定義は上記のどれとも異なっていて、個人的で主観的な定義でしかないのですが、利潤追求目的の商業性に基盤を置かない文学です。政府や財団法人などからの援助を基盤に成立している文学です。例えば夏目漱石明治政府の税金によって外国留学をした初の民間人であった。という点において、夏目漱石は純文学であるのではないかと思うわけです。漱石漢文学と英文学の違いに戸惑う文章をよく書いているのですが、中国において文学とは政府がお抱えの学者に書かせるものであり、その多くは歴史書になります。そこで書かれた歴史は官吏登用試験などに出題されるため、読んで暗記しておくことが立身出世のためには欠かせないものとなります。中国において大衆演劇を小説化したものなどは、政府によって作られた正統な文学とは区別して奇書と呼ばれます。


日本は第二次大戦敗戦時に芸術家・マスコミの戦争責任が問われ、以後芸術家は政府に協力してはならないし、政府も芸術家に予算を与えてはならないという風潮になっています。結果、日本の文化予算は先進国の中では極端に低く、その予算のほとんどは、明治以前の日本の伝統芸能(能や歌舞伎など)の保護に使われています。


アメリカなどは、政府が直接投じる文化予算は欧州に比べて低いと思いますが、税制上、寄付金には税金がつかないため、金持ちの多くは税金対策で財団法人を作り寄付をします。儲けた金のほとんどを税金で持っていかれるぐらいなら、財団法人を作って若い無名の芸術家のために寄付をする。その財団法人に自分の名前や企業の名前を付ければ、企業や自分のイメージアップになるし、そこから有名な芸術家が育てば、その芸術家のパトロンとして振舞えるし、有名芸術家のパトロンであることが次のビジネスにもつながっていく。これが日本の場合、寄付金にも税金がつくわけです。すると、金持ちが税金対策で芸術家の育成プログラムに寄付するなんてことはなくなります。
最近の小説家で公的機関から資金援助を受けていた有名作家と言えば、ハリーポッターの作者がそうです。