THE MANZAI 2013の感想

平たく言って漫才のフォーマットは
権威・先生・ツッコミVS反体制・クラスの人気者・ボケで
8時だよ全員集合の学校コントで、授業をしようとする先生と、授業を脱線させようとする生徒の掛け合いを描いているようなフォーマットが基本だと思う。


鴻上尚史小林よしのりのエッセーを読んでいると思うのだが、60年安保的なメンタリティで、社会や世の中のすべてに嫌悪感を持って、社会を変えようとしたときに、真面目に論じたり社会運動をしても誰も聞いてくれないから、お笑いという形式にして、自分が本当に正しいと思う主張をボケ、世間が建前上正しいとしている主張をツッコミにして、世に出すと、世間の何割かはボケとして提出された主張を真摯に受け取ってくれるので、社会をより良い方向に変えて行ける。お笑いだけが社会を変えるんだという政治的な側面もありつつ、いやただのガス抜きだよという部分もありつつ。


1970年代から80年代前半に掛けての、コント55号やツービート、コントレオナルドやドリフ、東大一直線マカロニほうれん荘辺りは、ギャグの形式ではあるが、真面目な政治的主張もあったわけで、いまだと爆笑問題浅草キッド、下手すると有吉弘行なんかもそういう側面があるわけで、商業的価値は笑いの量で決まるけど、カリスマ性みたいなのは、政治的なメッセージ性で決まる部分もあると思う。70年代のギャグ漫画の新人賞赤塚賞でも、社会風刺やメッセージ性がないと上位に入れなかった。そういう時代もあった。


1970年代ヤングオーオー時代の明石屋さんまは、司会の桂三枝に対して、雛壇の位置から三枝を攻撃して、雛壇から番組を仕切って、最後には司会者から切られて番組を下ろされた。そこからひょうきん族まではかなり長く干されていたと思う。


プロレスラーにガチンコの強さは必要なのか問題があって、台本通りに殺陣をやってコメントするだけなら、ガチンコの強さはいらない。TV局のいう通りに動く使い勝手の良いタレントなら、ガチンコ必要ない。駆け出しの芸人にとって、TV収録の3時間前から雛壇芸人何十人が集まる大部屋の楽屋に入って、本番始まるまでの3時間の楽屋トークは放送コードなしのガチンコで、プロの芸人しかいない場で、誰がトークの主導権を握るのか、誰が一番面白いのか、誰が一番無茶できるのかを争う場で、密室芸のタモリ・マシンガントークのさんま・毒ガスのビートたけしと、ガチンコが強いとされた芸人は、収録が始まっても、他の芸人から一目置かれるし、芸歴とは別の威圧感を持ったりする。


1980年代以降の民放テレビからは、いかりや長介的な、NHK的な、学校の先生的な、権威ある研究者ポジションが消えて、面白い奴が偉いというバラエティ番組の空気が支配的になっていく。先生がいなくなった教室で、しゃべり続けるクラスの人気者ポジションの明石屋さんまと、根暗な友達いないポジションから、小声の短いフレーズで人気者のリア充を揶揄する松本人志という対比に移行しする。ノン・スタイルのイキリ漫才は、クラスの人気者とそれをやっかむオタクという漫才で、ダウンタウンの正統な後継者に見える。


何かまとまらなくなった


コンビ歴で言えばかなり若いウーマンラッシュアワーだが、いまのコンビになる前に、何度か組んでは別れてを繰り返していて、吉本に入った時期はNON STYLE・千鳥と同時期の2001年と言い出したときに、第一回M−1グランプリが開かれて以降に吉本入りした漫才師は一切育っていないとも言える訳で、吉本興業や漫才業界に対する停滞感はあるかも。