マイノリティー運動

個人的な思いつきですが、マイノリティー(少数者)の権利を守る運動によってマジョリティー(多数派)の論理が強化されているのではないかと思います。


新潮で翻訳がどうの世界文学全集がどうのという座談会があって、いまの世界文学の流れはポスト・コロニアルとかクレオールとか移民文学とか祖国を追われて移住した人間が異国で苦労して生活する話を書いた物が多いらしい。近代文学国民国家を作る物であったとすると、ノーベル文学賞なんかは、一国を国民国家としてまとめ上げた国民作家に与えられるわけで、ある種ナショナリスティックなものでもある。また、国民国家が形成された後には、国民作家は生まれてこないわけで、すると必然的に、国民国家の形成段階にある比較的新しい国家、植民地から独立したての国に国民作家は生まれてノーベル文学賞が与えられる。ある意味、自国でオリンピックや万博を開催すると先進国の仲間入りが出来るみたいな、なんかそういう世界なわけで。すると、世界文学の流れがより小国の方へ流れていって、最後は移民とかに行くわけですが、移民達の文学と言うと、少数民族としての権利を主張して、多数派のナショナリスティックな論理に対抗するイメージがありますが、実は逆なのではないかと。


ポエトリーリーディング云々を見ても、アメリカでポエトリーやラップをやっているのは、黒人とラティーノ(南米からの移民)だけで、基本白人はやらないし、ヨーロッパでも黒人や少数民族がやるわけです。
白人のポエトリーはいわゆる普通の朗読で、リズムも韻もなく、大学の講義や著名人の講演みたいなのが通常です。対する黒人やラティーノのスラムは、リズミカルで韻を踏んでアカペララップになっている。いっけん、リズムに乗ったラップの方が、普通の喋りよりも高度に見えるかも知れないが、リズムに乗ったラップ=ナーサリー・ライムは、幼稚園でやるお遊戯と同じで、リズムに乗せて歌を歌うことで、言葉を覚えるのが目的になっている。言葉のリズムやアクセントやイントネーションを、音楽のリズムやアクセントやメロディを使って覚える。
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/119gou.txt
移民は15才だろうがハタチだろうが、その国に移住した地点から、その国の言葉を覚える必要が生まれて、その国の幼稚園児と同じようなお遊戯をやって言葉を覚える。むすんでひらいて、ずいずいずっころばし、げんこつ山のたぬきさん、そういうゲーム・お遊戯を通して体を動かしながら言葉を覚えていく。SLAMやMCバトルもその延長にあって、ネイティブはそこに参加しない。その地で生まれ育った人間が早口で澱みなくしゃべれるのは当たり前だからだ。


移民文学も基本、国家の移民同化政策の一環であり、移民としての権利を主張する文学を書きたければ、我が国の言語を習得して書きなさい、上手な文章が書ければほめてつかわせますよという物に見える。ある意味において自分には加害者意識がある。