金色の魚

金色の魚 アマゾンへGo!
について、少し書いてみる。
23章からなる小説で、おそらくこの章数は作者の年齢を示していると思われる。1974年生まれの作者が1996年にこの小説で新人賞を受賞する。単純計算して受賞時、作者は22歳。0歳から22歳までの23年間を23章であらわしている。いや、22歳までの自分+これからの一年を書いているのか?第22章のタイトルが「葬儀」で、この章の終わりが小説の終わり方としてはオーソドックスなきれいな終わり方をしている。その後に続く、第23章「花束」は誕生日の話で一ページ半しかない。


第23章は小説の本文というよりもは、新人賞の受賞後に書かれたあとがきのような印象さえある。例えば主人公の少女が誕生日を祝われているときの次の一節「彼にとって、私は永久に二十歳の少女であるらしい」は、まさに小説の中の主人公(=作者)は、十年後も同じ年齢のまま小説内の時間を生きていくのと似ている。また、三面鏡の中の永遠に閉じ込められる/逃げ出す話をはじめる。小説の中の止まった時間、小説中の二十歳の少女は十年後も二十歳のままだ。と、小説の外の移り変わる世界との間で、窓の外を眺めるところで小説は終わる。あとがきの中で「私は作家になりたいと思っているわけじゃなくて」と書いているように、事実竹森千珂はこの後、小説を出していない。二十歳のときに書いた小説の読者は、二十歳のときの竹森千珂の小説を期待し続けるだろう。小説中の主人公は歳をとらないが、現実の作者は確実に成長し大人になって行くわけで、そのズレは時間と共に大きくなって行くだろう。結局23章に到って作者は外の時間を選ぶ。


小説全体の構成としては、最初子供だった主人公が大人になるという成長小説の形式なのだが、主人公の成長に合わせて文体自体も翻訳物の児童文学文体から、ジュブナイルや青春小説になり、即物的なポルノになり、セックスの後、ドロドロした人間関係の昼ドラのようになり、高踏的な観念小説になり、そして最後はお葬式をして誕生日が来る。主人公の成長に合わせて書き方自体が変わり、その主人公がその時期に読んでいそうな小説の文体になる。ジョイスの「ある芸術家の肖像」がそのような書き方をしていたと思うが、珍しい形式だと思う。あらすじとしては、父とよく行く喫茶店で盗んだ金色の魚の絵葉書をめぐって、その絵葉書の差出人・受取人をたどる探偵小説としても読める。が、それよりもそれぞれの時期の書き方や表現方法に目が行く。


例えば最初のページ。章題を含む11行の中で、行末まで文字が埋まっている行はない。1行42文字入る中で、2行を除く全ての行が1行7文字以内だ。空白の行だけでも3行もある。空白やひらがなの多い幼児期の文章から始まって、10章までは翻訳物の児童文学文体だ。11章以降は見ず知らずの男性宅に泊まって性交渉を持つ。初めての一人旅と性的冒険を含むある種の青春小説の形式になる。児童文学には性描写は出てこないが、ここで小説の形式が一度変わった印象になる。14章で大学に入り、恋人ができて、彼とのさわやかな恋愛小説が始まる。これが18章から嫉妬や不安の感情が出てきて、ドロドロした人間関係の昼ドラのテイストを帯びる。そして最後は葬式と誕生日。
p109より「人間は一回死んで、そのあと別のものとなって生まれ変わる。死の世界を体験しなくては、主体的に生を生きることができないからだ。」
22章で亡くなった人から、23章では花束が届く。


11章以降はベッドシーンが頻繁に出てくるが、性描写自体も入れて出しての即物的な描き方から、60〜70年代の若き女性純文学作家が書いたような観念的で高踏な描写に移って行く。


装丁を見る限り、おそらく出版社としては当時のベストセラー作家吉本ばななのラインを狙って作ったのだと思う。1996年当時、集英社から出ていたコバルト文庫の市場に講談社X文庫や小学館パレット文庫も参入し、中高生向きの学園ラブコメが量産されると共に、そのジャンルの質の低下が生まれ、悪貨が良貨を駆逐する形で長年コバルトで書いていたベテランラブコメ作家がコバルトから撤退し歴史小説などへ転換していた時期。コバルトの編集者が、うちではもう学園ラブコメはいらない。ファンタジーが欲しいと言っていた時期。ハリー・ポッターはまだなかったが、漫画的な小説からテレビゲーム的な小説へ転換が図られ、RPG的な剣と魔法の世界が中高生向け小説の新たなジャンルとして注目され、TTRPGのシナリオを小説化した文庫が量産された時期。金色の魚を吉本ばなな+ファンタジーという売れ筋の商品として出版社サイドは考えていたと思う。


当時の私はこの小説をアイドル小説として読んだ。そんなジャンルがあるのかどうかは分からないが、アイドルポップスやアイドル映画があるように、アイドル小説というジャンルがあったらこんな感じだと思った。アイドルは作り手と受け手との間に擬似恋愛が発生して成立する。アイドル映画と恋愛映画は似ているようで違う。恋愛映画は消費者が、映画の中の登場人物に擬似恋愛をするが、アイドル映画は映画に出ているアイドルに擬似恋愛をする。オードリヘップバーンの演じている役に恋をするのか、その役を演じているオードリヘップバーンに恋をするのかの違いだ。


アイドル映画においてアイドルは振られなくてはならないと、どこかのアイドル評論に書いてあった。異性を振るようなアイドルはファンにとって嫌なものだし、かといってアイドルが誰かと両思いになって、付き合ったりセックスしたりするのもファンは望んでいない。結果アイドルの恋は常に失恋に終わらなくてはならない。その文脈でいうと、アイドル小説において、露骨な性描写はあってはいけないことになる。事実、私は性描写を飛ばして読んでいた。本を読むときに、辞書や百科事典や新聞や雑誌を読むときのように、自分が読みたい行を探し出して読む検索的な読み方と、長編小説を読むときのように最初から順番に直線的に読む読み方があって、自分は小説に関してはほとんど検索的な読み方しかしないのだが、そのような読み方が合っている本だったし、特に何度も読んだ箇所は最初の10章ほどの児童文学文体のところで中でも最初の3章に好きな文章は集中していた。はてなダイアリー内でこの小説に関する感想を読んでも前半部に好感は集中するようだ。(参照 http://d.hatena.ne.jp/kikioni/20040907


小説から迂回してアイドル文化について書くが、アイドル文化の想定購買層は現実の恋愛をする準備段階にある年齢層の人間である。その層に対して、露骨な性描写は避けられるべきであると同時に、オブラートに包んだ形で、婉曲的にセクシャルなニュアンスを商品にするのがアイドル文化だ。例えば、「1999年の夏休み」という映画の中で、男とも女ともつかない生徒達が4人、夏休み中の学校に来て生活をはじめる。生徒の性別が分からない地点で、観客を第二次性徴以前の性的に未分化な時代に連れて行くことで、ストレートな性的欲望を観客に禁止する。しかし、その4人は黒髪・ショートカットで、棒タイ・Yシャツ・サスペンダー・半ズボン・黒革靴といったショタ心くすぐるファッションで、恋のいざこざをはじめる。途中で一人が熱病にうなされ、ベッドで大粒の汗を流しながら「ううっ、ああっ」とうめき声をあげるシーンがある。この際、重要なのはメタレベルとオブジェクトレベルの乖離だ。セクシーさを売りにした巨乳の水着モデルが下着姿であえぎ声を出したのでは、アイドル映画として成立しない。映画内においては、あくまで熱病にうなされるシーンとして描かれ、観客に対するサービスカットとしての演技をしていないにも関わらず、それを見る観客のレベルにおいては、セクシャルなシーンとしても解釈されうるという二重性がアイドルという商品において重要なのだ。


以上を念頭に小説に戻ると、第1章のタイトルは「しっぽ」だ。主人公であるしっぽのある女の子が生まれることろから話は始まる。しっぽに関する記述を抜き出してみる。
「それに、私は女の子だったから、リボンを買う必要があった。しっぽに結ぶためである。」
「しっぽにはくり色の、光のかげんで金色に光る、うぶ毛のようなのがはえている。しっぽの先のほうを触ると、足のうらとひざの関節のあたりがそわそわ、とする。しっぽの中間のあたりを触ると、耳の後ろがざわっ、とする。」
2章より
「しっぽのある子供がいても、小さいときはみんな、ロンパースやエプロンドレスの飾りだと思ってかわいいね、で済んでいたのだが、大きくなるとそうもいかない。それに私自身なんだかじゃまで恥かしくなってきたので、小学校三年生の頃から、スカートやオーバーウエストのシャツの下に蛇みたいにくるくる巻いてテニスのスコートみたいなのの中に押し込んで、隠すようになった。」
11章より
「へえ。じゃまじゃない?
 わかんない。わたし、お父さんに聞いたことあるもん、小さいとき。
 なんて?
 おちんちん、じゃまじゃない? って。」
この小説中のしっぽと、上記映画における熱病でうなされるシーンが同じ物であることは分かっていただけると思う。物語内世界において性的でない物が、観客レベルにおいて性的に解釈可能であるという二重性がしっぽにはある。


アイドルというのは、かわいくなければいけない。色気よりもむしろかわいさ、未熟さによって観客に擬似恋愛を売る。かつ自分が何をしているのかに関して無自覚でなければいけない。かわいさを売るために客席に媚態をさらしてはいけない。真剣に歌う、真剣に演じる、真剣に小説を書く。その結果が偶然かわいく見える。少なくとも客席からはそう見えなくてはならない。自分がかわいいことを本人が自覚しているのが、客席に伝わってはいけないのだ。無意識・天然に見えなくてはならない。


小説中、かわいい表現を抜き出してみる。P4より


「おかあさんはまあ、と言ったっきり黙ってしまった。なぜ、しっぽがあるのだろう。少しはそうも思ったらしいが、もっと気がかりなのは、つまり。というのは、父の話である。
 出しておくべきか、それとも、隠すべきなのか、ということであった。原因や根拠は、女の考えるべきことではないのである。事実を捏ねくりまわすのは、女の腐った物たる男がやることなのである。」


言いたいことは伝わってくるが文法的にはおかしな部分が挿入されている。


「なぜ、しっぽがあるのだろう。少しはそうも思ったらしいが、もっと気がかりなのは、出しておくべきか、それとも、隠すべきなのか、ということであった。」


これなら文章は通じる。その文章の後に


「なぜ、しっぽがあるのだろう。ということに関して、もっと気がかりだった人は、父の方である。」


と来れば、まあ、普通の文章だ。ところがこの二つの思考が同時に心の中で起こったため、二つの文意に共通する「もっと気がかりなのは」という語を中心に、二つの異なる文がくっつき奇妙な効果を生み出している。もしこれが英作文の授業で、SVOだのSVCだのといった、主語+述語形式の文型に当てはまらなければ減点されるような類の作文で、
「もっと気がかりなのは、つまり。」や「というのは、父の話である。」などといった文を作れば間違いなく減点されるだろう。「もっと気がかりなもの」が主語で、動詞がbe動詞である以上、SVC型の文型で、「A is B」の文型にならなくてはならない。補語であるBの位置には、名詞や形容詞が入るべきで、「つまり」などという副詞でピリオドはありえない。主語の省略が許されない中学校の英作文や、小学校低学年の作文、日本語学校の初歩クラスでは、確実に減点されるトリッキーな文章を書くことで人目を引き、かわいいと思わせることに成功している。
その後に続く、「事実を捏ねくりまわすのは、女の腐った物たる男がやることなのである。」などは、男尊女卑的な慣用表現をひっくり返すことで面白い効果を狙っていると同時に、幼く未熟な二元論的政治意識を大上段に出すことによって、かわいいと思わせる効果、天然っぽさをかもし出す効果がある。


p16「私はいつも突然、デートに誘われる。学校があろうとなかろうと、お天気がよければ問題ないのだ。誘うのは例外なく、私の親愛なる父親である。」


ファザコンという要素は、ある種の幼さ未熟さを示すわけで、ほのぼのしたかわいさと、ある種の危うさを同時にかもし出している。


P18「外には雨が振っている。お父さんはとなりで、昨日買った『ドリトル先生航海記』のペーパーバックを読んでいる」


ドリトル先生って児童文学じゃないですか。たぶん、お父さんはドリトル先生を読まないと思うんですよ。書店で娘に与える本を選ぶ時に読むことはあっても、家で雨の日に自分の趣味で児童文学は読まないと思う。子供の視点で大人を見た時に、大人も自分たちと同じようにドリトル先生を読んだり、チョコレートやキャンディーが好きだったり、ビー玉やおはじきを集めてたりすると思っている。本といったときに、児童文学しか知らないから、大人が本を読んでいると、ドリトル先生を読んでいると思ってしまう。そういう子供視点で描かれる世界が非常にかわいい。


P20「お父さんの部屋に行くと、ごちゃごちゃ積まれた本のグランドキャニオンの谷間で、開いた画集の上に丸くなった毛糸玉のようなものが、周期的に膨らんだり縮んだりしている。私はその側にしゃがみこみ、そのかたまりの形を崩さないように持ち上げて、ひざの上にのせた。(中略)私はがらをもとに戻して、彼を起こさないように、静かに部屋を出た。」


「がら」というのは小説中に出てくる猫の名前なのですが「丸くなった毛糸玉のようなものが、周期的に膨らんだり縮んだりしている。」という幻想的な描写のまま、その物体が何か明かされずに話が進み、最後その物体との別れ際に、そっけなく正体を明かされる。大人だったら猫という概念で見てしまうところを、幻想的にとらえる子供の感性がかわいくみえる。