シノハラユウキ「物語の(無)根拠」

シノハラユウキ氏id:sakstyle文学フリマの販売物のweb版です。
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webで無料で読めるものとしては異様にクオリティーが高い。
今回の文学フリマの出店者で評論系だと相関言論さんとシノハラユウキさんがツートップで共に東浩紀色強し。


はしがきで、時間論・自由論・フィクションの成立についてと三つのテーマが挙げられている。
論の骨子を書くと、物語を上から眺めるメタ物語があり、それは物語に対する支配力を持つ強者であり、自由意志を持つ。サウンドノベル的な複数の可能世界から望む物を選択できるメタ物語において、時間は主体から可能性を奪う暴力として表れる。より上位の強者を目指す物語から、システム内部を循環する主体へ移動し、上位(メタ)と下位(サブ)の区別のない複数の可能世界が並列されたインターフィクションへとなる。


構造と力」の図式を持ち出すと、より上位を目指す物語がプレモダン(ピラミッド型のヒエラルキー)、循環するのがモダン(クラインの壷)、並列がポストモダンリゾーム)となる。自由意志と量子力学の問題は、マルクスが卒論で触れているのを柄谷行人が「批評とポストモダン」で触れている。


この論の凄み、不気味さがにじみ出してくるのは5章辺りからだろう。この章では阿部和重の「ミステリアスセッティング」が「インディヴィジュアルプロジェクション」(以下「IP」)との比較において論じられている。IPにおいて爆発しなかった核兵器がミステリアスセッティングにおいて爆発する。その間の変化としてシノハラユウキ氏はこう述べる。

アメリカ国防省は、二〇〇二年に公表された防衛見直し報告の中で、核兵器の先制使用を検討していた。使用しないことによる戦略的な価値よりも、使用することによる戦術的な価値が検討される時代になった。だがこの作品で阿部が核兵器を爆発させたのは、核兵器が使用されうる可能性に警鐘を鳴らすためではないだろう。


核兵器が使用されうる可能性に警鐘を鳴らすためではないだろう。」と書くシノハラ氏の言葉に取りあえずの同意をしよう。いまどきプロレタリア文学じゃあるまいし、小説によって社会に警鐘云々が流行らないのは常識として共有されるだろう。では阿部氏がこの物語でやりたかったことは何なのか。阿部氏の他作品と「ミステリアスセッティング」の違いをシノハラ氏はこう描く。

『IP』には、阿部作品の例に漏れず、暴力的な結末が待っている。オヌマの勤める映画館で死者も出る火災が起こり、オヌマ自身も入院する。ところが、『ミステリアスセッティング』ではシオリ以外は誰も死んでいないし、また核爆発による具体的な被害の状況も何ら描かれていない。(中略)『ミステリアスセッティング』に暴力的な結末がない


物語のクライマックスに用意されるべき派手な暴力シーン、群集活劇におけるド派手なアクションシーンがミステリアスセッティングには欠けている。では替わりに何があるのか。

核爆発以後の記述もある。『核兵器が爆発したのに、彼女以外には、死者は全く出なかったの』であり、『ここがこんな荒れ地になってしまったのは、大地震が原因ということになっている』のだ。


そもそもこの物語は、Z=爺さんの回想として展開されており、作中で爺さんの語りを聞く者からも『つくり話』だと思われている。あるいは、Z自身もシオリからのメールを『連載小説みたいなもの』と捉え、核爆弾についてのメールが来た時には『そんな新展開はあまりにも非現実すぎたために興ざめし』たといっている。読者は、シオリの身に起こったことをメイクビリーブできないだろう。だが、Z=爺さんは『これはつくり話なんかではなく、実際にあった出来事なのだ』と強硬に主張し続ける。とても信じられないような話を、信じるように求めてくるのだ。


積み重ねられた伏線の数々が一気に解決されて気持ち良く読み終わるのではなく、何の脈略も無く核兵器は爆発し、爆発したにも関わらず、何も無かったかのように世界は存続し、そんな物は無かった事として処理されている。この気持ち悪さが分かるだろうか。小松左京の「戦争はなかった」や演劇で言えば、90年代に湾岸戦争を題材にした一連の「静かな演劇」に連なる技法だろう。「なかった」と否定されることによって、その存在がより不気味に浮かび上がってくる。


これまでシノハラ氏の論は作中作がより上位の強者の作品になろうと、メタを目指して行くという展開であった。その最も上位である現実の作者・編集者・読者まで上り詰めた所で一度話は終わっている。ところがここで再び、作中作が読者・作者のいる現実の世界にまで上り詰めてきている。いま私たちが住む世界では核戦争は起きていない。少なくともそう信じられているし、核戦争が起きているというニュースもない。ミステリアスセッティングにおけるZ=爺さんの住む世界でも、核爆発はなかったことになっている。しかしZは「核兵器が爆発したのに、彼女以外には、死者は全く出なかった」とし「これはつくり話なんかではなく、実際にあった出来事なのだ」と強固に主張する。Zの住む世界と私たちが住む現実との類似点は多いが、現実世界において核兵器は爆発しているのだろうか?


ここでもう一度さきほどの言葉を思い出そう。
核兵器が使用されうる可能性に警鐘を鳴らすためではないだろう。」
つまり、「核兵器が使用されうる可能性」ではなく、劣化ウラン弾とはいえ、現に核兵器が使用されている現実に警鐘を鳴らしているのではないだろうか。少なくともシノハラ氏の論からは私はそう感じた。
フィクションがより上位を目指して上昇して行った時に、最後、読者がいま現に住んでいる世界にまで上り詰める。この論の終わりはこのような言葉で締めくくられている。

物語の外部を不確定にすることで、フィクションの間【インター】に作者や読者を組み込んでしまう試みなのである。