カウンターカルチャーの現在

1968年に日本・アメリカ・ヨーロッパで学生運動が起きた。安保闘争とかスチューデントパワーとかプラハの春とか色んな呼び方はあるが、世界同時多発的に起きた。第一次ベビーブーマー世代が上の世代に対して、階級闘争というか、武力衝突をした。ベトナム反戦運動やヒッピームーブメント、フラワームーブメント、大人たちの作った格式ばった文化に対し、カウンターカルチャー(対抗文化)を仕掛けた。

この時の敵はアカデミズムやハイカルチャーで、知識人を名乗る大学教授達に対して、学生たちが反抗した。この大学教授と学生の力関係が、68年以前と以後でどう違うのか。江戸時代末期から明治の初期にかけての日本の識字率は5%ほどと言われている。文字を読めない大衆が大勢いる一方に、欧米に留学し、先進国から最先端の学術書を輸入・翻訳・紹介し、学術の世界でスターになるルートもあった。旧帝国大学は日本に七校しかなくて、大学卒であることがエリートであることを意味した。各都道府県に大学が出来て駅弁大学と呼ばれるようになり、大学進学率が50%超えると、エリートでもなんでもなくなった。欧米の主な学術書が日本語に翻訳され、岩波・朝日で読めるようになると、大学知識人と大衆との知識の差が縮まった。日本語を読めない大衆と洋書を読む知識人から、岩波を読む知識人と岩波を読む大衆ぐらいの差になった。

1945年に第二次大戦が終わった地点で本土を空襲されていない先進国はアメリカだけで、世界の工場であったヨーロッパは焼け野原で、工場としての生産力が落ちていた。1968年にもなるとヨーロッパの生産力が復興するとともに、日本の工業も復興し、世界が生産過剰になる。物が売れないから大企業は新卒採用を控えるようになる。大学の数が少ない時代であれば、大学に行って、大学院、助手、准教授、教授というルートがあったが、大学の数と学生の数が増えると、大学生=研究者というわけでもなくなる。大学生=研究者だった時代なら、大学教授と学生の関係は、上司部下の関係で、研究室という徒弟制度の中で師匠と弟子の関係になるが、三流大学を出たところで研究者に成れるわけがないし、教授の下で弟子になるわけでもないとなれば、教授と学生の関係は、客と店員になる。学外の企業に学生を推薦するルートもなければ、客が店員の指示に従う理由もない。

その頃のカウンターカルチャーは、Whole Earth CatalogとかRolling Stone(ロック雑誌)とかインタビュー(ウォーホル)とかバラエティ(映画雑誌)とかで、そういう雑誌の影響を受けて、日本だと宝島が生まれ(その前に70年代の平凡パンチや「PocketパンチOh」があるか)クイックジャパンにつながる。彼ら(対抗文化)が敵だとみなしたメインカルチャーはクラシックやオペラや国立劇場で上演されるシェークスピアといったもので、国や地方自治体が金を出して地域住民のために無料で提供する文部省推薦の高級文化みたいな奴だ。客がお金を払って手に入れる娯楽文化=ポップカルチャー(商業文化)で、国策文化に対抗しようとした。68年だと週刊少年マガジンですらカウンターカルチャーだった。

明治初期のように、海外留学して外国語の学術書を読む知識人と、日本語の文字を読めない大衆ぐらいの差があれば、知識人の選んだ立派な国策文化を大衆がありがたく受け入れるが、岩波を読む大衆と岩波を読む知識人ぐらいの差だと、選択権を大衆側によこせという話も出てくる。

私が物心ついたのは1980年ごろで、既に日本ではメインカルチャー=商業文化だったわけで、むしろヨーロッパ系の文化のあり方、ウィーン市の税金で運営されているウィーンフィルやベルリン市の税金で運営されているベルリンフィルの方が、相対的に希少なカウンターカルチャーに見えた。最近知ったがウィーンフィルベルリンフィルも完全民営化されて、AKBなどと同じ商業フィールドで勝負する楽団になったらしい。

平たく言えば、許して下さい。