副題が「きみも村上隆を超えてみないか?」ですから、村上隆を超えたのか?スーパーフラット以後の日本美術界のビジョンを描けたのか?が問題なわけですが、そもそもスーパーフラットとは何か?が問題に成るわけで。ルネサンス期の芸術で言えば、一番偉いのが建築で、二番目が彫刻で、三番目が絵画だった。もっと言えば、彫刻は柱の装飾であって、絵画は建築の壁紙であった。建築の部品として彫刻や絵画があったのだが、建築からの絵画の独立を企てたのが美術評論家クレメント・グリーンバーグになる。

建築

クレメント・グリーンバーグの「フラットネス(平面性)」

村上隆の「スーパーフラット

ポストスーパーフラットアートスクール


という流れが一個ある。スーパーフラットに関しての著作となると、これになるのだが、http://www.amazon.co.jp/dp/4944079214 この中で村上隆は自ら作り出した造語であるスーパーフラットに対して定義をせずに、複数の美術評論家や画家や芸術家に、スーパーフラットを定義させている。唯一の正しい定義を作らずに、複数のあいまいな多義性の中で、その語を使用していく方向性を村上隆は選んだのだ。その多義的であいまいな概念に対して、ポスト(以後)を付けることで、その語の意味はさらにあいまいさを増す。単に時系列的に以後というだけなら簡単なのだが、定義されない語に対する反対語を示すわけで、ここを語るのは意外に難しい。


一つのエピソードとして、村上隆がアメリカに日本の絵画を持って行ってアメリカ人に見せた時、遠近法を厳密に使用したリアルなアメリカンコミックを描くアーチストが日本の萌えアニメを見て、こんな平面的な絵は描けないと本気で驚いているという話がある。西洋の遠近法に対して、日本の浮世絵を見せた時、西洋人が「フラット」と感想を述べたから、スーパーフラットというキャッチコピーを作ったという話を見ても、遠近法に対するアンチテーゼとしてのスーパーフラットがあるとすれば、それをさらに覆して、ポストスーパーフラットと言ったときに、遠近法に戻ったのでは普通に成ってしまう。そこで、ポストスーパーフラットアートスクールの校長をつとめる黒瀬陽平氏の実質的デビュー論文「キャラクターが、見ている。〜アニメ表現論序説」思想地図vol.1に掲載。http://www.amazon.co.jp/dp/4140093404/ これに出てくる「逆遠近法」http://d.hatena.ne.jp/kidana/20140622の概念が生きてくるかもしれない。実際、今回のポストスーパーフラットアートスクール展においてもhttp://d.hatena.ne.jp/kidana/20140822、中山いくみ氏は逆遠近法を駆使した「Re:ターニング・ピクチャー」と呼ばれる一連の作品を出しており、他に「ポストスーパーフラット祭壇画」も描いている。

立体の建築(アーキテクチャー)

遠近法(パースペクティブ)を駆使した絵画

浮世絵的な平面性の絵画(スーパーフラット)

逆遠近法(ポストスーパーフラット)


もちろん、スーパーフラットは単に遠近法のみに言及した概念ではない。ハイカルチャー(高級文化)とポップカルチャー(大衆文化)の距離感を等距離(フラット)にしたという側面。油絵や日本画や彫刻のようなハイカルチャーと、漫画やアニメやイラストやフィギュアやプラモデルのポップカルチャーが等距離に成る。もしくはフォーディズム的に社会階級がフラットに成り、社会のピラミッド型のヒエラルキーがなくなって、一億総中流のフラットな階級が生まれるという側面。別の説を取るなら、スーパーフラットは、正社員とフリーターの格差が表れたポストフォーディズムだよという説もある。http://www.n11books.com/archives/24601821.html


ハイカルチャーポップカルチャーの断絶はある種の格差社会を前提としていて、高等教育を受けた知識人がたしなむハイカルチャーと、高等教育を受けていない大衆が支持するポップカルチャーというヒエラルキーがあり、それが日本で言えば1980年代の時期に、一億総中流となり、社会階層はフラットになったのだが、その後、正社員/フリーターという新たな格差が生まれた。

ハイカルチャーポップカルチャー(知識人/大衆のヒエラルキー)

一億総中流(フォーディズム)

正社員/フリーター(ポストフォーディズム)

??(ポストスーパーフラット)


ポストスーパーフラット格差社会とどう向き合うのかという問題でもある。今回のポストスーパーフラットアートスクール展で言えば、H.Kの「石巻専業主婦」、巣窟明の「路上生活者」、佐藤奈々子「桜の花びらのような女の子たち、永遠に死なない女の子たち、小さな人たち、きっとなにものにもなれないお前たちに」、古村雪「踊り子(2011年3月21日・東京・雨)」、村田和歌子「Le voyage moment」、初鹿野雄起「RISING SUN」、小早川太子「國之楯」などが、それにあたる。


東日本大震災の被害にあった石巻の専業主婦達を取材した「石巻専業主婦」。路上にゴザをひいて破れたGパンを着て生活する「路上生活者」。


お金がなく不衛生な脱法シェアハウスに住んでいた女の子が、ダニにかまれながらも、壁に貼った画用紙に部屋の中の様子を描いた佐藤奈々子氏の壁画作品にはよく分からない種類の狂気を感じる。薄汚れたシェアハウスの中に居る自分を直視できずに、テレビの中のカワイイアニメキャラクターやカワイイアイドルに自己投影して、存在しないキャラクターを部屋の中に描き始める。ダニに食われて茶色く変色していく画用紙のふちと、写実的に描かれる部屋の様子とアニメキャラクターの混在が、キャラクターが華やかであればあるほど、現実の貧しさが際立つというジレンマ。


その壁画とセットになっている佐藤奈々子氏のインスタレーション風のオブジェで、シェアハウスから出た彼女が働くメイド喫茶のコスチュームや、コスチュームをカスタマイズして飾る小物アクセサリーの類が緑の金網フェンスに掛けられている。ウェディングドレス風の白いレースのメイド服はそれ自体が、彼女の欲望であると同時に、ブルセラ的に考えれば男性にとっての性欲の対象でもあり、彼女の商売道具でもある。メイド服に付ける自作の小物アクセサリーも、かわいくお客の目をひくものであると同時に、ある種の女性が太ももや胸の谷間に蛇やサソリの入れ墨を入れるかのように、ここまでは誘うけれども、ここから先は威嚇するよという、威嚇の要素もアクセサリーにはあって、白いドレスの中で赤いレースのリボンが血のように流れ落ちていたり、眼の形をしたワッペンがじっとこちらを見ていたり、誘惑と威嚇のコントラストがメイド服の中にある。先ほどの壁画とセットで見た時に、このメイド服が本当にメイド喫茶で働く彼女のものなのか、それともメイド喫茶で働いている自分自体が、彼女の幻想だったのか、分からなくなるのも面白い。


古村雪さんの「踊り子」は格差社会を人間と動物の領域に広げた作品で、村田和歌子さんが格差の問題を日本から離れて南北問題、国による途上国からの搾取に広げているのと似て、より広い視点に立っています。


ポストスーパーフラットを語るときに、単純なアメリカ型のポリティカル・コネクトレス(PC)芸術に還元したくないし、その手の単純化は避けられるべきなんだけれども、フォーディズム(フォード主義・終身雇用制度)が終わった後の社会である前提は必要であると思う。社会主義の理想である豊かな平等社会を実現させたのが、アメリカのフォード主義なんだけれども、ベルトコンベアのライン工をしていれば豊かになれた時代は終わって、工場は途上国へ移り、産業(製造業)は空洞化している。その中で、今の日本のビジネス誌が書いている話は、新競争社会の中でいかにして他人を蹴落とし自分が上に上がるかという話でしかない。ドナルド・トランプのように世界一の大金持ちから一瞬にして世界一の借金王になる不安定さを示している。


その先を見た時に、ヨーロッパ型のノブレス・オブリージュを織り込んだ階級社会・格差社会を個人的には設定したい。ピラミッドの上にいる人間は自分の下で多くの人間が自分のために一所懸命働いてくれているから上にいれるわけで、下にいる部下をないがしろにして、下からの人望なり信頼なりを失ってフランス革命の一つでも起こされたら、ひとたまりもない。格差が安定した社会の中において、上流階級にとってのステイタスは金を持っていることではない。下からの人望があること、社会の最下層の人たちの暮らしぶりや文化を知り、彼らと交流を持って彼らとともに生きていることがステイタスに成る。村田和歌子さんの「Le voyage au moment」を例にするなら、日本とベトナムラオスの南北の文化の違いをアートにしている。一般に日本は先進国だとされて、日本に生まれたという理由だけで、日本人は途上国住民よりも高い給料で良い暮らしをしている計算に成る。その日本人が人権費が安いからという理由だけで途上国に行って、現地の人に安い給料で働いてもらって搾取しようとしても、中々現地の人は働いてくれない。現地の言葉や文化を学んで、現地の人と仲良くなって信用を得るところから始めなきゃいけない。先進国/途上国の経済格差を仮に、一億層流中のフォード主義以後の社会になぞらえた時に、貧しい人たちの生活を知り、彼らと交流を持つことが、上流階級にとってのステイタスにもなっている。ハイカルチャ(高級文化)とローカルチャー(低俗文化)のヒエラルキーが、逆立する。ハイカルチャーの中にいる上流階級ほど、ローカルチャーの情報を欲しがるという逆転現象が起きる。