鴻上尚史監督の映画を観てきた

鴻上尚史監督 新作映画『恋愛戯曲 私と恋におちてください。』を観てきた。
「爆笑につぐ爆笑の一大娯楽映画」みたいなキャッチコピーが一番観客動員につながるのではないか?と思った。前半は爆笑につぐ爆笑が続いて、中盤、テーマが深く深遠になり、最後は軽く涙も誘いつつ感動させて終わるという、いつもの鴻上スタイルで「お笑いか、お涙頂戴か判らない。浅いか深いか判らない。どのジャンルに入れて良いか判らない」と評されることが多いと言われる鴻上尚史ですが、日本映画でこのパターン(前半散々笑わせて、最後少し感動させる)は、男はつらいよ釣りバカ日誌の系統で、王道中の王道、ジャンルで言えば、喜劇・コメディに入ると思うし、寅さんから釣りバカに連なる客層をターゲットにするのが、商業的には正しいと思う。

ちなみにネットでの映画公開記念インタビュー的な物を見ると、恋愛映画という方向で、広告されているが、オシャレな恋愛映画を期待して見に行くと、時代設定がバブル全盛期のトレンディドラマになっている地点で、いまの若い学生さんOLさんたちには、古臭く見えると思う。


「究極の選択」カレー味のウンコか、ウンコ味のカレーか?や

「10回クイズ、違うね」〜

A:「ピザ」って10回言ってみて?

B:ピザ・ピザ・ピザ・ピザ・・ 

A:(腕の関節を指差して)ここは、何? 

B:ヒザ 

A:違うね!ヒジでした〜

など、鴻上尚史オールナイトニッポンでブームを作り、書籍がベストセラーになったのが、私が中学の頃、1988年前後。高校の学校図書館にはなぜか鴻上の戯曲は結構入っていたし、夏休みの読書感想文は鴻上の影響で「ゴドーを待ちながら」で書いた。学生時代、鴻上脚本をパクッた学生演劇を何本も見た。第三舞台の芝居はみたことがないが演劇に関して鴻上一神教だったりするので、他の脚本家はなんとなく敵だと思っている。そんな自分の目から見た感想としては、1980年代に時代の最先端を描くのが売りだった鴻上も、バブル崩壊後の日本(1993年以降)を描けなくて、バブルを描いている。それは村上春樹の「1Q84」もバブル誕生期(1984年)を描いた小説だったように、80年代前半に名をなした人は80年代前半を描くのが上手い人で、いまの日本を描けるのは、いまデビューした人なんだろうなという回顧的な感情だった。


演劇では絶賛されて、映画では酷評されることの多い鴻上が、演劇で成功した物を映画化すると失敗する理由について、エッセーで書いていたりもするのだが、映画を見ながら、優れた演劇を映画化したときに、劣化してしまう理由について、つい考えてしまった。


1)手品は舞台では観客を驚かせるが、マンガやアニメや映画になると、観客を驚かせることが出来ない。舞台を見ていて、役者が突然、空中浮揚すると、目に見えないピアノ線か何かで吊るされていると判っていても、つい「すごい」と思ってしまうが、CGや特撮が普通に使える映画では、空を飛んでも当たり前に成ってしまう。ブロードウェイのミュージカルから映画になったグリースというロック映画があって、その中で、アメ車が走るシーンがあるのですが、舞台では当然、車が走るわけにいかないので、停まっている車の背景を動かしたり、床が回転するステージで車が横にグルグル回って、疾走感を出すのですが、それと同じようなシーンが恋愛戯曲にもあって、演劇風に背景を動かす特撮も交えつつ、実際に車が走っちゃってる場面もある。演劇だとファンタジックに見える特撮が、実際に車が走ってしまうと、そのまんまなんですよ。


2)舞台だと、抽象度の高い背景やセットを使うので、一人二役で行なう劇と劇中劇の区別が途中から付かなくなるが、映画だと、衣装も髪型も、人物のバックにある建物や内装もすべて違うので、劇と劇中劇の違いが最後まで明確なままになる。これは映画を見た人にしか判らないと思いますが、深田恭子演じる「落ち目の売れっ子脚本家」とその脚本家が書く脚本の中に出てくる「生活に疲れた主婦」が、始めは対極の物として描かれるわけです。華やかなテレビの世界にいるワガママな売れっ子脚本家と、ホカホカ弁当屋でテンプラを揚げるパート主婦の地味な生活は、まったく違う世界なのですが、売れっ子脚本家の締め切りが迫り、ホテルにカンヅメになり、プレッシャーを掛けられ、下の世代の若い脚本家が台頭し、時代遅れだといわれ、徐々に追い詰められる中で、演劇もしくは戯曲だと、売れっ子脚本家と生活に疲れた主婦との境界線が見えなくなり、役者が同じで、暗転による変化も、徐々に違いがなくなると、TVの華やかな世界にいる売れっ子脚本家=生活に疲れた主婦になる。だからこそラストシーンで泣けるし、深みも発生するのだが、いかんせん映画の場合、脚本家がカンヅメになっている一流ホテルと、主婦がTV局の人に自分の書いた脚本を見せている喫茶店では、内装の違いが明確で、同一化しない。良くも悪くも深田恭子の演じ分けが上手すぎる。結果、脚本家の世界と主婦の世界が対立したまま、映画が終わる。二つの世界が対立したまま終わったと解釈してしまうと、後味が悪いし、世界観が浅い。成功した演劇を座長自ら映画に移植しても、完全移植にならない辺りに、深さを感じる。