Critique As"Readymade"峰尾俊彦×カワムラケン

クレメント・グリーンバーグの「アバンギャルドキッチュhttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4326851856/を仮想敵(近代)に設定し、デリダの「コーラ」を中心にプラトン東浩紀柄谷行人などを参照しつつ、「近代」「ジャンル」を可能世界論的に乗り越えて行く試み。ゼロアカ道場に対する潜在的批判を乗り越えようとする試みでもある。
・新たなる「ジャンル」概念に向かって
・<既製品>としての批評
の二つの論が掲載されていて、両方とも非常に面白かった。
一つ目の論で、いまいち理解できなかったのは、デリダグリーンバーグの違いだ。p3において両者の類似性を指摘し、グリーンバーグを擁護するような展開だったのが最終的には、グリーンバーグとは別の道を指し示す終わり方をしている。


p12「グリーンバーグにとってジャンル独自の目的は目的論的に前提に決定されている」


とあるが、そのようなグリーンバーグ批判に対する反論が、論者自身によって既になされている。


p4「冷静にあらゆる社会の中心にある諸形式の先例、存在理由、機能を歴史と因果関係の観点から考察し(中略)現下のブルジョア社会の秩序は永続的な『自然』状態ではなくて、単に一連の社会秩序の最新の段階にすぎないこと」


グリーンバーグの文章を引用し、グリーンバーグにとってジャンル(社会の中心にある諸形式の先例)は、永続的に決定された物ではなく、偶然いまこうなっているに過ぎない物として、p12的なグリーンバーグ批判に対する予防線を張っている。私にはこの予防線をこの論は乗り越え切っていないように見える。


二つ目の論に関して。かつては作者に作家性があり、作者という貯水池から読者に作家性という水が流れた。いまはニコニコ動画のMAD動画に見られるように読者共同体がMADやキャラクターグッズと言った二次創作を作り、作家性はむしろ読者の側にある。作者は作家性を汲み上げてもらうのを待つ受動的な貯水池だと峰尾氏id:mine-oの論をカワムラケン氏id:anisopter02が扱っている。


日本におけるネットとは何かと言ったときに、昔ながらの雑談や井戸端会議を保存・検索・参照出来るようにしたもので、顕在化された口コミだという言い方がある。つまり、MAD動画や二次創作は商品として売ってしまうと版権的にアウトだが、ネットという通信手段を使ったコミュニケーションツール、口コミとして存在する分にはOKだ(実際には親告罪だが)となったときに、昔の読者が受動的でMADを作るいまの読者が能動的とは言い切れない。昔から読者=消費者は、創作物=商品を能動的に選別し、能動的に口コミによって語っていた。芸術が単なるコミュニケーションツールでしかない。しかも芸術家と観衆の間をつなぐツールどころか、観衆相互のツールでしかないのは昔からの話で「お前、モー娘だと誰が好き?」と言うときの、モー娘は、単なるツールで、他の女性アイドルグループでも交換可能だし、ときメモや「ToLoveる」や「源氏物語に出てくる女性キャラ」でも交換可能だ。


芸術家の側に価値があるのではなく、話題になっていること自体に価値があり、話題にしている観衆側に価値・作家性があるという言い方は、ニワトリと卵で、多くの創作物がある中で話題になる作品を作った作家の側に価値があるとも言い換えられる。この価値観の転倒は、峰尾氏が観衆の側にいて作家に作家性を感じていたのが、ゼロアカ道場を通じて作家側に立ったことで、観衆側の価値を意識するようになっただけで、MADはそれほど関係ないのではないかと思わなくもない。