オタクのサブカル批判

オタク=ナードもしくはフローター(図書館司書)と
サブカル=プレッピーの対立みたいなのは
分かるような分からない様な、微妙な感じだが。オタク側からサブカル批判はしばしば聞かれる。


中学高校の教室で言えば、仲良しグループの中で、流行に敏感なオシャレさんのポジションに着くために文化を身にまとっているのがサブカルで、教室に友人なんか1人もいなくて、一日中本を読んでて、友達と話さなくても全然平気なのがオタク。


オタクがサブカルを批判するときの、一番説得力のある文脈はこういったものだろう。デッサンなどの入試試験がある美大でなく、無試験で入れるデザイン学校・アニメーション学院的なところへ進学した時、授業は先生が出した課題(人物画・風景画・建築物など)を生徒がその場で提出し、提出された課題に対して、先生や生徒が批評する流れで授業が進む。来週までに、これこれを作って来てという課題に対し、提出の義務はなく、提出は生徒側の任意で、また、提出した課題を授業のサンプルとして取り上げて、講評されるされないも、生徒側の任意であるとき、サブカル側の人間は、課題を出さず、出しても講評を希望せず、オタク側が提出した創作物のアラ探しばかりする。要するにサブカルはクリエーター(創作者)ではなく、ディレッタント(審美者)だ。というのが、オタクによるサブカル批判の骨子だろう。就職も、オタクはアニメーターなど動画会社やゲーム会社だが、サブカルは広告代理店やTV局もしくは漫画喫茶。画家ではなく画商だ、陶芸家でなく骨とう品の鑑定士だってことでしょう。


この辺も相補的で、画商の視点がない画家の絵は売れないし、画家の視点がない画商は画家から絵を買えない。でもまあ、なんかこう、なるほどなぁと思うところはある。