反抗期のメンタリティー

群れで生活する動物が、第二次性徴期に反抗期というやつが来て、親と同じ群れの中にいるのが我慢ならなくなって群れを出ようとする。中学・高校の時期だろうか、自分にもそういう時期があった。親がウザくてしょうがないし、心底嫌だったが、同時に自分の親は客観的に見て、それほど問題がある親とは言えず、はたから見たときにごくごく普通の幸せな家庭に見えたであろうことも分かっていた。幸せな家庭で立派な親であるにも関わらず、一緒にいるのが我慢ならない。いや、立派な親であるからこそ、群れから離れる時期には、群れで生活する動物の本能が健全にはたらいて、存在そのものがウザくなる。


人間が狂っているのは、そんな時期に受験勉強などをさせて、ストレスをさらに強化している点だ。一番親から離れたい時期に、親の元で受験勉強をさせて、それを乗り越えた時期に、大学を卒業して社会人になった二十代・三十代で群れから離れさせるが、その時期には反抗期的なメンタリティーが弱体化して、逆に親離れできない大人として社会問題になったりする。


ロックや小説や映画や漫画といった文化・芸術を本当に必要としているコアターゲットは基本、反抗期のメンタリティーを持った人たちだと思う。この時期の子達にとって、世界とは学校と家庭と通学路、世界中の人とは親と兄弟と先生と友達。親から与えられた群れの中に育って、外の世界に出たいのだが出る能力も決心もなく、精々コンビニの前で同世代の仲間達と作った群れでたむろするぐらいで、自分と世界をつなぐ国家や社会といった中間項がないセカイ系の中で生きている。自分が生まれ育った群れの中しか知らずに、その群れを本能的に嫌う。セカイしか知らずに、セカイを嫌う。


大人なら、自分の群れ、自分の家族、自分の仲間、自分の職場、自分の会社を自分の能力、自分の責任で選び、作り上げることができるし、そうあるべきだ。セカイが嫌なら、その外のセカイへ出れば良い。理想とする群れがないなら、自分でその群れを作れば良い。自分が所属する群れに対する不平不満は、全て自分の責任で自分に返って来る。


ある会合で「ヘイト・スピーチ」という言葉を知った。特定の民族・宗教・人種・職種・属性の人に対する差別的憎悪的言動のことで、ヨーロッパではヘイト・スピーチはネット上で禁止されており、(日本における違法ポルノ画像のように)本人の許可なく削除されるらしい。これは言論統制だと主張する若者と、取り締まる側との間で論争になっているらしい。


インターネットは反抗期のメンタリティーで満ちていると個人的に思う。実際、mixi2ちゃんねる辺りを見ると、10代後半から20代前半の若者達の、群れに対する反抗的言動であふれている。無記名や仮名で書き込める空間に、自分の中の不平不満を匿名で書き込みまくる。ネット上に書くとき、まずその書き込み先の群れを批判する所から始める。**コミュなら、そのコミュニティーの主旨や主催者や参加者やルールに、まず異議を唱える。スレッドがあれば、そのスレ主を批判する。スレッドやコミュニティーとまったく無関係の話を書き込み、注意されるとキレる。コミュやスレを仕切るお前らはそんなに偉いのか?同じ人間のクセして威張り腐りやがって!反抗期のメンタリティーとは、自分以外の全てのセカイ、すべての他人に対する憎悪と否定だ。自己を顕示し、他人を否定する。この他人を、固有名でなく、もう少し普遍性を持たせて、**人とか、++な奴等と一般化すれば、ヘイトスピーチの出来上がりだ。


物書き・小説家を目指すような人間の多くが、一番最初に書くまとまった量の文章はヘイトスピーチだ。例えば夏目漱石が一番最初に書いた小説「我輩は猫である」などはその典型で、猫視点でインテリ層の悪口をひたすら書き綴っている。「くたばれ専業主婦」の作者は専業主婦をしている実の妹への不平不満を集めて本にしただけらしいし、サポセン・クレーマー系実話話も電話のクレーム対応の仕事をしている人に嫌なお客さん話を集めて、笑えるテイストに編集しただけだ。「銀座のママが教える〜〜」なども、こんな客は嫌だという職場の愚痴・不平不満を集めて、それを編集部がほんの少しひっくり返し、「こんなことをしなければ女の子にモテます」とすることで、銀座のホステスにモテる方法本に仕上げているだけだ。職業実話系の編集部がやる仕事の一つは、ただの悪口を商品に加工することだ。


小説というのは、商業的に成功しないと出版社的には扱えない。商業的に成功するには、みんなから愛されるルックスの良いアイドルを主演に映画化ドラマ化しなくてはならない。かわいい男の子や女の子がいっぱい出てきてその子達がより魅力的に、よりかわいく見えるような話でなくてはならない。そこに悪意は必要ない。映像化して売れる小説とは主人公≒作者が萌えキャラでなくてはいけない。(純文学の伊豆の踊り子が多くの女性アイドル達によって演じられ、何度も映画化されたように。また、純文学のインストールが上戸彩主演で映画化されたように。)多くの観客がその主人公を好きになるから本や映像は売れるのだ。自分以外は全部敵というメンタリティーでは、万人に愛されるキャラクターを描けない。


純粋理性批判の巻頭で書かれているのは「従来の哲学は単なる独断論と、単なる懐疑論しかなかった」ということだ。「俺はこう思う」という独断論と、「それはあなたの個人的な考えであって、普遍的に全ての人にとって正しいわけではないですよね」という懐疑・否定の論理だ。どちらも反抗期のメンタリティーで、自分以外の全てを否定して終わり。そこに何も生まれない。実際、mixiの哲学コミュや2ちゃんねるの哲学板にでも行けば、独断と否定以外の何もなかったりする。カントはそこから一歩出ようとする。自分の所属する群れを全否定するかわりに、理想的で誰にとっても居心地の良い群れを作る方法を考える。普遍的に正しい文章だけで、哲学を組み立てようとする。ある文章が普遍的に正しいためには、先験的に、つまり、経験以前の地点で正しくなければならない。実験の結果正しいと確認されたというような正しいは、100回やって100回とも正しかったとしても、101回目には正しくない結果になる可能性もある。


「このサイコロを振った結果は1〜6までの自然数になる」という文章の正しさは、実験によっては確認できない。百回やって百回とも1〜6の間の自然数であったとしても、次は8が出るかもしれないからだ。数学や幾何学の法則は実験によって正しさが証明されるわけではない。1+1=2というのは、実際にやってみる前に、その正しさが存在している。先験的に正しい文章だけで哲学を組み立てようとする。自分の力で、自分の群れを作ろうとするカントに、反抗期のメンタリティーはない。


反抗期は子として群れの中に所属する限り存在し続ける。群れを離れて実際に自分が親として責任を持って群れを作り運営し始めると、群れの中のセカイに対する不平不満は全て自分の責任に返って来る。現実の中での仕事や活動が忙しくなると人はインターネットなどをやる時間がなくなる。企業広告的なインターネットや、人間関係のコネクションを維持するためのマッサージ的な時候のあいさつ的なネット利用は増えるが、反抗期的なメンタリティーは確実に薄れる。反抗期のメンタリティーを仮に中二病だとすると、いまの自分のメンタリティーは中二でも高二でもなく大二病だと思う。