データベース

東浩紀の使うデータベースという用語をずっと理解できなかった。対義語である「大きな物語」とどう違うのかまったく分からなかったのだ。これは動物化するポストモダン以降の東浩紀を理解していないのとまったく同じだ。


ある時期までは大きな物語、日本が近代へと成長するとか、敗戦国から先進国へ高度成長を遂げるとか、そういう大きな物語、大文字の目標があったが、ある時期、冷戦の崩壊辺りから、そのような大きな物語がなくなり、小さな物語の集積、データベースが存在するようになった。理解出来ていない前提で、自分なりに解釈すると、そういう話に見えた。


しかし、冷戦時代は米ソという二つの大きな物語があり、相反する二つの物語の混合・配分によって物語は作られていた。とするなら、それはデータベースと同じではないのか?と思ったわけだ。資本主義と社会主義自由主義経済と計画経済、右翼と左翼、アメリカとソ連、相反する二つの大きな物語があり、各新聞社やTV局は、ある面においては資本主義寄りの、別の面においては社会主義寄りの立場を示し、ここの場面場面において、バランスを取って配置する。その結果、社会主義の、もしくは資本主義のヴァリアント(異本)が多数発生する。これはデータベース的思考ではないか?


データベースと大きな物語の違いは、大きな物語は一種類の支配的な物語があって、データベースは小さな物語が複数あって、その中の要素がバラバラにデータベースに集積されていて、あるきっかけで、それぞれの要素が引き出されて新たな小さな物語が発生する。という理解の仕方をしたとき、大きな物語は、一種類でなければならず、政治と文学とか、自然主義ロマン主義とか、アメリカとソ連とか、二種類あるとそれはもう、大きな物語とは呼びにくい。ということは冷戦時代には存在したという大きな物語は、冷戦とか核抑止力といった物語なのか?


マルクス主義的な大きな物語が1968年ぐらいまでは、存在していたとして、学園紛争・スチューデントパワーの時代に、スターリニズム批判が起きて、マルクスの大きな物語は終わった。資本家による支配を打倒するための運動体があったとして、その運動体(例えば共産党)の中に、支配する者と支配される者、党の幹部と末端の党員がいて、そっちの歪みの方が、社会全体の歪みより大きいことが暴露されて、マルクス主義という大きな物語は終わったわけだ。日本共産党などは、その弊害をスターリニズムと呼び、マルクス=レーニン主義と切り離して、マルクスを擁護している。


高校時代「分裂は力なり」という言葉が好きだった。社会主義者・無政府主義者が集った第一インターナショナルで、初期の頃はマルクスバクーニンが手を組んでいたが、やがてバクーニン派=無政府主義者が離れることになり、社会主義インターは「団結は力なり」と無政府主義者の合流を求めたが、バクーニンは「分裂は力なり」と応じた(だったと、思う。あまり自信はない)。二人以上の人間が集まれば、そこに上下関係が生まれ、支配する者と支配される者の関係が生まれる。完全な平等を達成するには、分裂するしかない。アナーキズムの究極と限界を示した言葉だと思う。無政府主義・アナーキズムの語源は、自律・自治を意味するアウトノミアらしい。高校時代、自分が好きだった概念は、インディペンデント(独立)・インディビジュアル(個人)で、人と組むことによって発生する人間関係や上下関係が嫌いだった。そういう意味で自分はアナーキストだったのかも知れない。


ボブ・ディランの師匠にあたるウディ・ガスリーの自伝映画「わが心のふるさと」を観たとき、びっくりしたのが、日雇い労働者の群れの中でウディ・ガスリーがギターを片手に歌を歌い、労働者達が腕を振り上げて「ユニオン!ユニオン!」と叫んでいた場面だ。場所はアメリカで、時代は1930年代。ウディ・ガスリーは社会派のフォークシンガーで、映画を見ると、ユニオン=労働組合を作れば、世の不幸はすべて解決するかのような勢いだった。イギリス国旗のユニオン・ジャック=ユニオン・フラッグは、労働組合の旗なのか?http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=union&kind=ej&mode=0&kwassist=0
ユニオンは米国旗の星章の部分を示し、The Unionでアメリカ合衆国南北戦争当時の連邦軍を示す。ユニオン=労働組合は、ソ連側の物語であり、アメリカとは相反する物だと思っていたが、ザ・ユニオンでアメリカ合衆国を意味し、アメリカとはユナイティッド・ステイツ・オブ・アメリカ(United States of America)であり、国際連合とはthe United Nationsであり、ソ連とはUnion of Soviet Socialist Republicsであり、unionismとは労働組合主義であり、アイルランドの独立に反対する連合主義であり、米国南北戦争当時の南北の分離に反対した連邦主義である。
資本主義と社会主義、米ソの対立があるのではない。団結(ユニオン・ユナイテッド)を求める大きな物語と、分裂・自治・自律を求めるアナーキズムがある。


自治・自律を意味するアウトノミアの究極は、自給自足になってしまう。分業の否定はアダム・スミス国富論を参照にするまでもなく、生活実感として効率の悪い選択だろう。かといって、団結(ユニオン・ユナイティッド)の息苦しさは浅間山荘やスターリニズムを参照するまでもない。では、自由主義経済における市場はどうだろうか。計画経済と違い、各自が好き勝手に好き勝手なものを作る。値段も各自で好きな値段をつけて良い。各自がバラバラに動くが、市場で物と物、物と貨幣を交換する際、交換する当事者同士でのみ合意が必要となる。それは当事者間の小さな物語であり、国全体、社会全体の承認を得る必要もない。結果、自動販売機で一個120円の缶ジュースが、近所のスーパーでは一個98円で売られ、別の量販店では一ダース980円で売られる。どこでどの値段で買うのかは個人の勝手であり、個々の生産者・消費者は利己的に判断し、決して国全体の利益や社会全体の正義を考えて判断するわけではないが、結果としてその利己的判断が、神の見えざる手によって、妥当な所に治まる結果となる。


東浩紀のデータベースの概念は、市場の比喩で理解すると理解しやすいのかも知れない。実際、投票権を政策毎に分割し、投票権同士で交換する市場を作るという話を本人もしている。とはいえ、私は東さんの言う「データベース」や「キャラクター」を理解出来ているとは言いがたい。私は頭が悪いのだ。
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  • 大きな物語の起源はヘーゲル弁証法だと思われる。
  • 古代→中世→近代という大きな物語。正・反・合という大きな物語。
  • 規律訓練型管理を警察や軍隊を使った暴力による管理だとすると、環境管理型権力は利上げや利下げ、通貨の発行量によって市場を管理するマクロ経済学的な管理に例えられるかもしれない。