コア・ターゲットとボリューム・ゾーンは違う

http://d.hatena.ne.jp/kidana/20070603/1180863102
の続きで、音楽でも文学でも映画でも演劇でも、
芸術的な何かを本当に必要としているのは中学二年生ぐらいから高校生ぐらいまでの反抗期のメンタリティを持った年齢の人間で、これを文化のコア・ターゲットだとすると、商品として文化を買い支えているボリューム・ゾーンはそれとはズレる。


反抗期のメンタリティを直で表現した表現は、自分以外はみんな敵で理由の分からない焦りやいらだちを抱えた若者が一人で、自分の部屋にこもってそのタイプの表現を受け止めて自分を癒す。孤独な若者一人一人と表現が直でつながる。映画でいうと「自転車泥棒」とか「大人は判ってくれない」とかメーカーでいうとATGやキティ、音楽だとある世代にとってのボブ・ディラン吉田拓郎アンダーグラウンドレコードとかもそうだろう。インディーズと呼ばれる表現にそれらのタイプの物が多い。


対する文化のボリューム・ゾーンに向けて表現を発信するメインカルチャーは、孤独を抱えた若者一人一人とつながるのではなく、不特定多数が訪れるコンビニや商店街の有線で、不特定多数に向かって流され、映画ならファミリー向けの映画として公開され、不特定多数が見るテレビなどのプッシュメディアで流される。不特定多数に向けて一方的に押し付けても当り障りが無くどんな人にも拒絶感・抵抗感が少ない当り障りのない物を目指して作られる。


映画で言うなら、孤独を抱えた若者個人個人に向けての表現は、観客が一人づつでしか映画館に来ないが、カップル向けのラブ・ストーリーなら二人連れで来てくれるので来場者数は倍になる。子供向けのアニメや怪獣映画も子供一人では来れず大人とセットで来るので倍になるし、ファミリー向け映画なら3人以上で観に来てくれる。アメリカだと親戚の子供が家に遊びに来た時、特にこれといってやることがなければ、映画館に連れて行くのが普通であるらしい。日本でいう遊園地に行く感覚か。遊びに来た親戚のファミリーと、自分達のファミリーを合わせてふた家族が集団で映画館に来てくれれば入場料・入場者数も跳ね上がる。


映画ビジネスなどを見ると本当に飢えているコアターゲットに向けての表現はビジネスとして成立していない。音楽も結構厳しいと思う。例えば、ボブ・ディランとレッド・ツッペリンだと、レコードの売上げ枚数はゼロ一つ以上ディランの方が少なかったりする。hide(X-Japan)は「中学の頃の自分を裏切れない」と言っていたが、その辺りのバランスと言うか、分からない部分は多い。