カタログ雑誌・投稿誌・批評誌・暴露誌

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雑誌の判型と雑誌の内容がある程度リンクする。
大きな判型でフルカラー写真印刷だと、
1.印刷代が高い=予算が掛かる=広告重視=カタログ雑誌
2.目立つ=世間・企業・規制の目が厳しい=建前重視
にならざるを得ない。
思えば、大学生が作ったマニア向けの同人誌=投稿誌としてスタートしたよいこの歌謡曲・ロッキンオン、少し違うが八十年代の宝島などは、小さな版型にザラ半紙に白黒印刷でスタートしたのが、カラー印刷で良質の紙を使った大きな版型になることで、投稿誌としての機能が落ちていき、カタログ雑誌化して行った。ロッキンオンはまだ、かろうじて投稿誌のスタイルを残しているが、末期のよいこ歌謡のグラビア雑誌化はひどかった。


1945年に第二次大戦で負けた時に、大本営発表をそのまま発表することしか出来なかったマスコミの戦争責任が問われ、政府発表や企業発表のチェックを取材によってマスコミは、やらなくてはならないという建前になったが。60〜70年代にチェックしたところで、政府や企業の公式発表と異なることを紙面に載せたら次回から政府・企業の公式会見に呼んでもらえないから載せれない=調べても無駄。になり、公式発表だけを載せるカタログ雑誌と、実録内部暴露のみを載せる暴露誌に二分される。法的には雑誌の紙面の49.5%以上を広告に使うことは禁止されているのだが、実質記事の内容も広告を出している企業の意向で作られてしまうようになる。色んな業界誌の話を聞くと、広告の出稿企業からのクレームで、マイナスイメージのことを書いてはいけないというのは納得するにしても、例えプラスのことでも、プレスリリースに載せてないことを書いちゃダメだとか、作品の内容に触れるなとかクレームが来るらしい。これは批評を禁じているに等しい。


本来批評誌というのは、読者が本を買うときのブックガイド、CDを買うときのレコードガイドブックとして機能すべきなので、良い商品は良い、悪い商品は悪いと書けなきゃいけない。百歩譲って、良い商品は良い、悪い商品は黙殺までが、ガイドブックとして使える批評誌の最低ラインだ。広告費によって記事のサイズが変わって、全ページが広告では商品ガイドとして使えない。かといって、買ってはいけないのような暴露誌・暴露本が商品ガイドとして使えるかというと使えないのだ。


そういう意味では、商品を買った人の投稿が載る投稿誌が理想なのだが、現実問題として、少年サ○デーのような漫画誌の投稿欄に、サ○デーで連載中のこのマンガが面白かったという投稿は載るだろうが、この漫画は詰らなかったという投稿は載らないだろう。編集部による選別がそこにあり、投稿記事の内容に関する広告出稿企業に対する全責任が編集部に掛かるとすれば、その投稿欄は編集部が書いて埋める物でしかなくなる。
投稿誌・投稿欄と言っても、送られた投稿を無作為に載せている誌面は無いと思う。どこの投稿にも1%ぐらいはただアブナイ事を書きたいだけの、放送禁止用語をただ並べただけの狂った投稿が来るわけで、そんなのに誌面の1%を割いている雑誌はガロしか見たことが無い。
となると、実際には投稿誌という形態はありえないとなる。広告主の意向が百%通る投稿欄と百%通らない投稿欄の両極端。カタログ雑誌と暴露雑誌の両極端しかないのか。


どの商品も片っ端から褒めるカタログ誌も、どの商品も片っ端からけなす暴露誌も、同じ物の裏表でしかなくて、商品の機能をきちんと分析し、どのような場面でどのように使うことを目的として作られた商品かを説明してくれる批評誌の必要性を俺は感じる。


ただ広告主としては、自社の商品をけなす記事に金を払うわけにはいかない。また、広告を出してなくてけなされた場合は「広告費を出さないと、あなたの企業の信用を落としますよ」と脅してくる総会屋に見えるだろう。映画や音楽といった特定ジャンルの批評誌を作ろうとしたら、そのジャンルの広告を一切載せない姿勢を見せないと厳密には成立しない。「ゲーム批評」などはそのスタンスを貫いているが、それゆえにすごく貧乏そうに見える。専門誌がその専門分野の広告を載せないと宣言すれば、実質広告を一切載せないか、広告はアダルトのみの雑誌になるか二者択一だ。雑誌社にとって都合の良いファッションや清涼飲料水や車の広告はおそらく取れないだろう。アダルト広告を拒否するなら、それは広告の載らない徳大寺有恒の「間違いだらけの車選び」的な書籍の形式を取るしかない気がする。