東浩紀トークショー

3月11日(土)19:00〜21:00(18:30開場)
「そして子育てだけが残った」
パネラー=東浩紀西島大介
会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山


3月13日(月)
東浩紀×佐藤大トークショー「動物化する東×大」
まじめに話したり、大喜利したり、現代の病からお笑いまでトークしてしまう?
[人物大喜利] 友達の友達から聞いた話……大塚英志滝本竜彦秋元康石野卓球、etc……
【出演】東浩紀(評論家)、佐藤大(脚本家/作家)


連チャンでみてきた。楽しかった。浅田彰柄谷行人はどちらも頭の良い人だと思うが、頭が良いの質がかなり違うと思う。柄谷行人の場合、大学教授・専門家的な難解な論文を構築する頭の良さだとすると、浅田さんの場合は、IQテストで左側の図形と同じ図形を速く見つけて丸を付ける速度と正確さが一般人の二倍三倍的な頭の良さで、パソコンに例えると、柄谷さんの場合、学術的な専門分野のデータ処理ソフトを搭載したパソコンで、アプリケーションソフトの性能が良いと。対する浅田さんは、CPUとメモリーの性能が圧倒的にすごい。


私の父は大学教授で、子供の頃の私にとって最も身近な大人の一人だったわけです。で、正直、父は大学教授として頭が良いか悪いかというよりもは、世間一般の大人の平均と比べてもそれほど頭の良くない、やや性能の劣る頭をしていると子供の私から見ても思うわけです。その父が社会的には一応大学教授として職業的にはそこそこ成功していると。子供の頃、父から色んな説教を受けたのですが、一番印象に残っているのは、俺は頭が悪い。俺の子であるお前も頭が悪い。頭の悪い人間が、どうやって社会の中で生き残って行くのか。大学教授というのは、自分の専門分野において他人に負けたら、それが即失業につながる。世界中で、このジャンルは自分しかやっていないという狭い専門分野を一個持って、そこから一歩も出るな。一般の人は自分の持ってる脳の九割ぐらいに常識を入れて、専門分野の知識は一割ほどしか入ってない。常識の半分を捨てろ。常識なんて脳の半分も入ってれば十分だ。残りの五割に専門分野の知識を入れろ。世間の流行なんか知らなくて良い。テレビの話題も知らなくて良い。教養もなくて良い。このジャンルは世界中で自分一人しかやってないという狭い専門分野の知識を脳の半分以上に詰め込め。そうすれば生きてゆける。


幼い自分にとって父親というのは嫌な生き物で、常識も教養もない専門馬鹿を地で行く人で、当時隣の家に、三歳・四歳の姉妹が住んでいて、四歳の姉が幼稚園に行き出して幼稚園でトン・トン・前を習ってきた。幼稚園で習ったトントン前を姉は三歳の妹に教えているわけです。「もっと、腕を伸ばして」とか妹に注意して、トン・トン・前をやらしている。妹は姉を尊敬していて「お姉ちゃんはすごい。トントン前が出来る」と言っているわけです。その姉妹に「君のは学問じゃない!」と怒鳴りつけて泣かせたことがあるぐらい、父は常識も教養もなかった。私にとって大学教授は一番身近な敵だったわけです。トントン前をやってる幼児に学問を要求するなと、当時の私は思ったわけです。
大学教授の主な仕事は外国語の学術書を読んで紹介することです。女子大生とかがよく気軽に「英語をしゃべれるようになりたい」と言ったりするのを見て、真剣に頭にきたりするわけです。彼女達のイメージしている「英語をしゃべれる」は、「日本語もしゃべれた上で、英語もしゃべれる」だと思います。でも、中学高校のときの英語の先生で英語の発音はきれいだけど、日本語の発音が不自然な日本人の先生がいたと思いますが、日本語と英語では発音する時に使う口の筋肉が違うので、片方に慣れるともう片方が発音できなくなります。普通に日本国内で考えても、きれいな大阪弁のイントネーションでしゃべれる人はきれいな標準語の発音が出来ないでしょうし、その反対もあるでしょう。単語の数にしろ、文法の数にしろ、その人のハードディスクに入る容量は既に決まっていて、能力が人の倍ある人は両方自然にしゃべれるでしょうけど、能力が人の半分の人は、まず、日本語の語彙や文法を捨てて忘れないと、新しい言葉を覚えられません。長嶋茂雄選手や新庄選手や矢沢栄吉の英語混じりの日本語が変だとみんな笑いますが、あれが普通なんだ、両手でつかんだ日本語の能力の半分を捨てて、右手をフリーハンドにしないと、右手で新しい外国語の能力を手に入れられないんだという実例をノンフィクションで読んだり見たりしているわけです。


私は幼い頃、父をかっこ悪いと思っていた。脳の容量が少ないのにその半分しか常識なかったら、そんな奴サラリーマンできんやろ。脳の容量が少ないのに、日本語忘れて外国語とチャンポンでしかしゃべれなかったら、そんな奴会社員できんやろ。「ヨドバシカメラで5割引セールだって」「(指を左右に振りながら)チッ、チッ、チッ、キャメラ!」つう会話する奴、会社にいらんやろ。


学習をするときに、世間の人はハードディスクに空きがあって、そこに物を入れるイメージで勉強や学習を考えるが、父にしろ俺にしろイメージは、ハードディスクに空きがなくって、どこを削除するのかをまず考えるんですね。例えば、英語を勉強したら英語と日本語がしゃべれるようになるのではなくて、日本語のデータを削除して、日本語が不自由になれば、英語の勉強を始められるというイメージなんですね。


自分の中のイメージで、柄谷行人は脳の性能は父よりもは高いかもしれないけど、所詮大学教授やんと。捨てるとこ捨てて専門知識入れてるでしょうと。浅田彰はCPU自体がすごいねんと。普通だったらフリーズするようなデータ入れても、リアルタイムで処理できる。でも、何か専門的なことをするための実用的なアプリケーションソフトは、入ってそうで入ってない。マルチに色んなソフトは入ってるけど、専門的なアプリケーションが一個だけ入った専用機ではないと。柄谷の本が学術書だとすると、浅田さんの本は一般的なCPUに超高速CPUの処理速度を擬似的に体感させるためのソフトだと。仮にカール=ルイスが世界最速の人間だとして、百メートルを9秒とかで走ってどんな実用性があるかというと何もないんですよ。東京−大阪間の移動だったらカール=ルイスが走るよりも新幹線を使った方が速いんです。でも、百メートルを9秒で走るのは、一般人が百メートル二十秒三十秒で走るのと比べて、走っている本人は気持ち良いかも知れない。自分の能力をすべて出し切って、人類の限界に挑戦して風になる。これはひょっとすると気持ち良いかも知れない。トップスピードが時速36キロ。一般人の百メートル走とはまったく違う景色が見えているかもしれない。時速36キロというのは普通のジェットコースターぐらいのスピードだ。ジェットコースターに乗ってみたら、擬似的にカール=ルイスを体験できて気持ち良いかも知れない。浅田彰の本を読むというのもジェットコースターに近くて、浅田彰の思考はこんなスピードで進むんだというスピードを擬似的に体験できて気持ち良い。浅田彰にはなれないけれども浅田彰を擬似的に体験することは出来る。私も大学生の頃は浅田彰になりたかった。


東さんの「存在論的、郵便的」をみると浅田彰的な頭の良さなのか、柄谷的な頭の良さなのか分かり難かった。全体的にはちゃんとした学術論文なのだけれども、あとがきの2ページと、本文のラスト2ページが学術的な体裁を壊して、浅田彰的なスピード感を出している。ラスト4ページとそれ以外の部分の、どちらがこの人の本質なんだと思っていたのですが、トークショーで、酒をあおってしゃべりだすと、浅田彰的なスピード感がすごい出てて、頭良い人って、こんな快感を日々得てるんだ。この速度で物考えられたら、そりゃ気持ち良いよなという快感が前面に出てくる。


そのトークショーを見ながら、世の中には浅田彰的な天才がいて、俺は当然のように浅田彰的な天才ではなくて、凡人が凡人のままどうやれば生きてゆけるかを考えた時に、幼い頃大嫌いだった父の処世術と同じ結論に至る。俺は浅田彰ではない。でも柄谷行人には、竹田青嗣には努力次第で成れるかもしれない(いや、それも無理だって早く気づけよ)。天才は天才にしか出来ない仕事をやれば良いし、凡人は凡人にしかやれない仕事をやるしかない。世界一の料理人が目の前にいたとして、その人はきっとすごいんでしょう。でも近代は、百人の凡人でいかにして一人の天才に勝つかという勝負をしてきた時代で、マクドナルドに勤めているアルバイトはどう考えても世界一の料理人ではないですし、マクドナルドというシステムを作った人も、世界一の料理人と呼ぶにはジャンルが違いすぎるでしょう。しかしある意味ではマクドナルドは世界一の外食産業だと言えるわけです。また、世界一の料理人が、ある種の料理の天才だとして、24時間料理のことを考えて、料理の腕をあげようと日々努力してると。そんな奴がマクドナルドでバイトしてハンバーガーを作ることで満足するとも思えないし、マクドナルドでアルバイトのシフト管理や給与計算をして満足するとも思えないわけで、そこは上手く住み分けするように出来てるんだよなとも思うわけです。