任天堂

高校時代、任天堂主催のゲームプログラミング講座の受講生になるオーディションを受けに行ったことがある。受講対象者は高校生以下でプログラミングができる者。私はプログラミングなんてできなかったが、何とかもぐりこんで、オーディションという名のイベントを楽しんだ。糸井重里氏と中村光一氏のトークショーがあり、スーパーマリオのトレーナーももらい、第二期講座の募集だったので、第一期生のトークや作品を見て、大いに楽しんだ。


第一期生でずば抜けたゲームを作った大学四年生の二人(第一期は大学生も受講対象者だった)のうち一人は慶応大学四年生で、ルックスも良くしゃべりも上手く、何をやってもトップを取れるタイプの人間だった。派手でオリジナリティの高いゲーム画面は、音楽・画像・ルール・操作性すべてにおいて、圧倒的だった。「私はゲーム作りは趣味に留めて、カタギの会社に入り、カタギの人生を送るつもりですが、彼なんかは一生をゲームにささげてくれるでしょう」といって紹介されたもう一人は「僕は対人恐怖症で、一生恋愛も結婚もせずにゲームプログラムだけしてゲームを恋人にして死んでいくんだ」と床に向かって語る暗い猫背の方で、その方のゲームはその後すぐに上海という名で商品化された。もう一人の、圧倒的なオーラ・オリジナリティを持った方のゲームはその後、しばらく見なかったが、あるとき、その方のゲームから影響を受けたと思われるゲームをTVCMで見た。広告代理店勤務のエリートサラリーマンが作った「IQ(インテリジェント・キューブ)」だ。


あの講座があった頃、日本はバブルで、広告代理店とかコピーライターとか慶応大学卒の肩書きなどで大金を稼げた時代だった。その後、派手でカッコイイ慶応大卒の方が作ったゲームが「IX(サイ)」という名で発売されていたことを知る。ゲーム作りなどというヤクザな業界には行かず、堅気になると語っていた一流大学卒の学生さんが自分でゲーム会社を立ち上げたのは大学を卒業してから8年後だった。スーパーファミコン時代、スーパーファミコンを製造販売していたのは任天堂だったが、スーパーファミコンの中の機械を作っていたのはソニーで、スーパーファミコン用のソフトを作るのに、ソニー製の1台1千万するパソコンを購入する必要があった。ファミコンソフトを作る以外に使い道のないパソコンを1千万円で買わなければいけないのがゲーム業界の参入障壁になっていた。スーパーファミコンの後、ソニー任天堂と決別してプレイステーションを出し、プレステ用ゲーム製作会社に、無料でゲーム作成ツールを配布し、パソコンゲームから多くのゲームを移植させた。PC98を持っていれば、誰でもパソコンゲームを作れるのだが、プレステの参入障壁をPCゲームレベルまで下げることで任天堂に対抗した。IXも上海も任天堂からではなくソニーから発売されていた。甘酸っぱい何かがそこにある。


追伸:未発表版のIXがすごかった点
1)あの頃見た他のゲームはBGMなしで効果音のみだったのに、IXだけBGMあり。
2)他のゲームプログラマーはベーシックのみなのに、IXの方はアセンブリ言語を使っていた。
3)ゲームのシステムがオリジナルで、元ネタになるゲームやスポーツや遊びが見当たらなかった。


1)に関してはゲームプログラムを組める人が、同時にオリジナル曲の作曲・編曲も出来た。もしくはそれを依頼できる友人・人脈を持っていたことを意味する。
2)当時のハードのスペックで、フルカラー&細密描写のゲーム画面をベーシックで動かすと、コントローラーで操作してから、実際に操作が反映されるまで、1〜3秒の時差があった。この場合、アクションゲームとしては売り物にならないゲームになってしまう。対応としては、白黒で丸いボールと四角いブロックだけでブロック崩し的な、ゲームボーイっぽいものを作るか、1〜3秒の時差が気にならないシミュレーションゲーム信長の野望・A列車・ときメモ)かRPGかパズルゲームを作る方向の二択になる。シムシティ的な方向で、コマンド選択してもグラフィックの変化は最小に留めて、画面上の数字だけが動いていくタイプのゲームが、作り手的には楽だった。