形而上学

竹田青嗣著の初心者向けの入門書を読むと、形而上学は哲学と似たような意味、と書いてあるので、ずっと同じような意味だと思って使っていました。


哲学というと、私はヘーゲルとかカントとかウィトゲンシュタインとかその辺の本を読むのが、哲学だと思っているわけですが、飲み会なんかで初対面の人達相手に自己紹介で趣味は哲学とか言ったりすると、ドン引きされたりするわけです。チーマー風の人が「俺、タバコはマルボロしか吸わない。これ、俺の哲学だから。」みたいなのを連想するみたいで、俺流とか俺の生き方とかを哲学だと思っていて、哲学と言った時に誰も学問のことだとは思わないわけです。これだから素人は困るよねぇと、思っていたわけですが。


形而上学(メタフィジックス)という言葉が最初に使われたのは、アリストテレスの著作で、物理学(フィジックス)に関する著作の前に、用語や記述法に関する前書きのようなものを書いた。これが物理学の前にあるものとして、メタフィジックスと呼ばれるようになったらしい。


カントは純粋理性批判の前書きでその著作を哲学の準備段階と呼んでいる。哲学の概念や記法や論理の展開方法について書いた純粋理性批判は哲学ではなくその準備段階で、純粋理性批判に続く、実践理性批判倫理学)こそが哲学であったわけだ。形而上学は、哲学なり物理学なりを書く・読むに当たっての、前段階として、そこで使用される概念や記法・文法などの説明としてかかれた物で、狭義の哲学とは、人間はどう生きるべきかを問う倫理学を指す。理想とする状態を善と呼び、理想からかけ離れた状態を悪と呼び、その善悪を個人に当てはめれば人生論になるし、社会に当てはめれば法学や政治学になるし、組織・企業の効率化という部分に当てはめれば経済学や経営学になる。


哲学の専門用語や記述法などを学ぶ学問としての哲学はむしろ形而上学なのであり、上記の話に戻れば、カントやヘーゲルの用語を知ることは哲学ではなく形而上学なのであり「俺、タバコはマルボロしか吸わない。これ、俺の哲学だから。」の方がむしろ正しい意味で狭義での哲学なのだと思った。