性別役割期待

ゼロアカ道場の第三関門のすべての自著要約にコメントをつけようと思ったが、
読解能力的に不可能だったり、私自身のやる気が起きなかったりしている。
ただ、個人的に興味が持てた部分に関してコメントしてみる。
雑賀 壱さん
http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka/youyaku/04.html
峰尾俊彦さん
http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka/youyaku/07.html
この二つは同じ物を正反対の立ち位置から描いているように思う。
オタク男性向けの恋愛物(小説・漫画・ゲームなど)を
男性の立場と女性の立場から論じている。


恋愛物には、想定読者と同じコンプレックスを持った主人公が出てくる。
そのコンプレックスが恋愛をする上で一つの障害となっている。
そこに理想的な異性が現れて、その異性と結ばれることが物語の最終目的となる。
オタク男性向けの恋愛物である以上、主人公は男性であり、
オタクであることがコンプレックスになっている。
このオタク男性を女性著者視点で論じるのが雑賀さんで
男性によって理想化された女性=少女について論じたのが峰尾さんだ。


両者の共通のテーマは、ジェンダーの拒否だ。
ジェンダーは性別役割分業とも訳されるが、
男はこうあるべし、女はこうあるべしという性別に対する役割期待と言える。
自著要約で扱われている恋愛物が多くの場合、学園物であることから
夫婦間の性別役割分業というより、
中学生高校生の恋愛における異性からの役割期待
いかに拒否するのかというのが、共通のテーマに見える。


雑賀の自著要約「暗黒兵法」に出てくる男性は
「能力は決して足りていないわけではないのに、
あまりの欲求の多さに突然動作を停止し、その後動こうとしない」。(暗黒兵法3行目より)
その結果「恋愛に代表される対人関係の希薄化」が起こり
「絶対善としての愛が滅びようとしている」。
非モテを自称し、モテないわけではないのだが、恋愛マニュアルに書かれた
男性への役割期待のあまりの要求の多さに、
女性に対してこんなに努力をしなきゃいけないなら、
俺はバーチャルな恋愛で良いやと擬似恋愛の中に引きこもる男性に対する
アジテーションが始まる。そして、君達オタクはモテるのだという論を展開していく。
それは従来の恋愛観=ジェンダーの否定であり、
画一化された性別役割期待の解体であり、
世間が要求する「みんな」への画一化を拒否する超個人主義である。


峰尾の「<少女>批評論序説」は男性向け恋愛物に登場する
理想的異性としての少女、
つまり男性が女性に要求するジェンダーとは何かを論じながら、
四章ではそのジェンダーを解体して見せる。
男性向けポルノ漫画の中に出てくる少女が
「鳥だったりクモだったりハエだったりナメクジだったり」
「人間/非人間、や男/女のような二項対立は存在せず、
巨大なペニスを持った少女やら、
三本のペニスと十二個の乳首を持った少年など」
である例を出して、少女という概念を拡散させ消失させてしまう。


ここで、ある種の少女批判・ジェンダー批判をしている作家を出すと
現代思想2007年3月号特集笙野頼子p60上段より
「女性を商品化するといったときに、
美人とブスの差別はそんなにひどくなくて、
五〇になったらブスのほうが男に持ててたりするわけで、
そういうことを考えると、ロリコンというのは身も蓋もない
女性の商品化だなと思うわけです。」
峰尾氏が少女というジェンダーを解体して見せる時
人間/非人間、や男/女のような二項対立を超えたとしても
若くてかわいい子供が性欲の対象になっているという事実は
四章目に到っても変化していない。
ここをどう考えるのかが問題になる。


ジェンダーが生み出す抑圧について言えば
1自分自身が異性から性別役割期待を負わされるという抑圧。
2自分自身が異性に性別役割期待を負わせてしまう罪悪感。
の二つがあって、雑賀氏は1を、峰尾氏は2を
解体しようとする。
何かを書こうと思うが上手く書けない。