漫才

「こんな私に誰がした」というテレビドラマがあった。
売れない漫才師が、努力をして漫才の世界でのし上がり頂点に立つという、漫才版スポコンドラマだ。このドラマが始まった時、どこかのコラムでこんなことが書いてあった。


今はまだ売れていない漫才師という設定だから、漫才シーンは面白くなくて良いのだが、今後、どんどん漫才がドラマ上面白くなって行かなくてはならない。ドラマの世界で面白い設定になっている漫才が現実の視聴者にとって詰まらない漫才だったら、リアリティーがなくなる。ドラマの脚本家と、漫才などやったことのない役者で面白い漫才など出来るのだろうか?漫才の世界で頂点に立つ面白い漫才を脚本家と役者で作れるなら、ドラマではなく、純粋に漫才に専念した方が良いのではないか。もし、漫才の世界で頂点に立てるだけの面白い漫才を作れないなら、ドラマ上漫才のシーンはどう処理するつもりなのだろうか?


武田真治筒井道隆主演のドラマで、一度しか見たことがないが私が見た回は、漫才のシーンも含めて面白かった。でも、ドラマの中で漫才をやることが非常に難しいことは想像できる。映像化(映画化・テレビドラマ化)を目的とした脚本のコンクールで準入選した脚本の選評でこんなのがった。


読み物としては面白かったが、映像化するには困難なシーンが多く、どうやって映像化するのか考えた上で書いて欲しい。例えば冒頭のシーンで、**の落語は決して上手くはないのだが、味があり人々から愛される落語であった。とあるが、これはどうやって映像化するのか。


いま少年ジャンプで連載中の漫画べしゃり暮らし 1 (ジャンプコミックス)べしゃり暮らし」は漫才好きの高校生が、漫才でのし上がって行く話だ。ほぼ「こんな私に誰がした」と同じ形式で同じ困難さを持っている。もう少し広く劇中劇というなら「ガラスの仮面」の困難さとも似ている。
ドラマの中で漫才をやった時に、ドラマの中でウケている漫才が、ドラマの外の人間にとって詰まらなければリアリティーがなくなる。面白い漫才を現実に作り上げなくてはならないという困難さ。
べしゃり暮らしを読んだ時に、それとは別の意味での上手さを感じた。漫才好きの主人公が、学園の爆笑王を名乗っているが、まだ必ずしもクラスのみんなにウケているわけではない状態を描いたシーンで、主人公の少年は学園で自分より面白い人間がいると噂を聞くと、相手に勝負を挑みに行き、勝つまでお笑い勝負を挑み続ける。ある時は、**が面白いという噂を聞いて、飛び出してゆき、頭からコーラをかぶって戻ってきたという。その日も主人公はお笑いの勝負をある人物に挑み、友人にコーラを買ってこさせる。そして、対決する人物と勝負を見守るクラスメートの前で、コーラの缶を振りまくる。コーラを振って振って振りまくる。これだけ振ったコーラは危険な状態だ。さあ、このコーラを空けたらどうなる?そう言いながら主人公はコーラを空けるが、炭酸は飛び出ない。缶を見ると「微炭酸」と書いてあり、「お前はボケ殺しか!!」と友人にツッコンで爆笑になる。
このシーンにおいて、大事なのは、まだスポコンとしては始まったばかりで、主人公の笑いがそれほど面白くないという設定になっていること。ドラマの中ではウケてないギャグでも、現実の読者にとって面白くなければ、現実の読者に読まれなくなるため、実際には面白くなければならないということ。劇中においてスベっていて、かつ現実においてウケている。そういうギャグを作らなければいけない場面だ。その困難を処理するのに、コーラをかぶるという詰まらないギャグに対して、天然をかぶせて現実には面白いギャグにしている。正直感動した。


これと逆のことを最近経験した。10代20代の学生が多くを占める職場の休憩所の落書きノートに、ギャグで、「32歳の知性派コンビの会話」と自称し
「A:バイト募集しても人こないですねぇ。時給が安いんですかねぇ。
 B:いまどき、こんなところで働いても儲からねぇだろ。いまはやっぱり、株だよ株。あと、企業買収ね。球団とか買うと良いんだよ。」
と書いた。自分ではそこそこ面白いことを書いたつもりだった。
一緒に働く20代学生の人間に真顔で言われた。
「木棚さん。俺も株始めようと思うんすけど。何から手つければ良いんですか?」
「木棚さん、頭良いっすよねぇ。木棚さんみたいな人が株やったら絶対儲かると思うんすよ。」
昨日、職場の休憩所の机にananの最新号「人間関係超整理法」特集が置いてあった。「能力をひけらかす人は嫌われます。会話のときには、たとえ冗談でもウンチク的なことは言わないことです。それはあなたの自己満足にすぎません」
俺の世界の中では面白いギャグが、現実の世界においてはスベっている・・・というか、知識をひけらかす嫌な奴になっている。「あの人、本気で自分のこと知性派と思ってんじゃん」「そんなところが、天然だよね」と思われてれば良いのだが。自分の中の世界において知性派で、現実の世界において天然だと良いんだよ。でも、すべてが逆になっている。