マイノリティがマジョリティに抱くヘイト

日本のポエトリー・リーディングを見てきた中で、それがオルガン学派(竹田青嗣小阪修平)と地続きだということに気付いた。

ポエトリーも小阪修平もベースは、マイノリティ(少数派)側からのマジョリティ(多数派)に対するヘイト(憎悪)から来ていて、在日韓国人とかヨーロッパの移民とか、祖国が戦争に巻き込まれて、戦火を逃れて他国へ移住した移民にとって、言葉も文化も異なる外国で暮らしていくのは楽では無くて、自分達の言語や文化を強制してくる多数派に対する憎しみは、一定数ある。

フランスのポエトリーとかは、国が移民同化政策で、外国人に税金でフランス語を教えて、その一環で、外国人が詩集を出したり、スピーチしたりする場を作って、フランス語でスピーチする外国人のコンテストで賞を与えたりします。そのスピーチの多くはフランスに対するヘイトで、大目に見ても、フランスに対する外国人目線の要望であって、「トルコ語が通じないからフランスは不便だ」とか言っているわけです。

フランス人からすれば「何故、俺達の税金がフランスに対する悪口コンテストに使われているんだ(怒!」となるわけで、それは反日教育をしている日本国内の韓国人学校に日本の税金を入れるのはオカシイとかいうのと似ていて、母国の人間と移民との間で、ゼロサムゲームをすれば、どっちかが権利を得れば、もう片方は権利を失うわけで、全員が得する落し所は中々見つからない。

ヘーゲルは全員が納得する大文字の正義、グローバルスタンダードとか国際標準、世界標準の正義にたどり着けるとしたのだけれども、実存主義キルケゴールは、すべての人間は他の誰でもない単独者であり、マイノリティだとヘーゲルを批判した訳です。

小阪修平は、人種や国籍に関係なく、全人類が仲良く手をつなげる世界を夢見ながら、同時に、それが不可能に近いこともよく分かっていて、ヘーゲルキルケゴールの両面を抱えて絶望する姿は学術的でも論理的でもなく、感傷的で詩的だったように思う。