「愛する人に。」

星占いの石井ゆかりさん著作の恋愛論集。
ネット発の著名占い師石井ゆかりさんが、個人占いで受けた様々な恋愛相談の経験を元に恋の悩みについて書いたエッセー集。
webサイトhttp://st.sakura.ne.jp/~iyukari/を見る限り、もっと明るくポジティブな恋愛応援本かと思ったが、読んでみると想像以上に硬派。石井ゆかり風に言うと「男前」です。
例えば、後書きの出だしが、カール・マルクスの「経済学・哲学草稿」からの引用で、第一章は、オペラ座の怪人の元ネタである戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」から話が始まります。
愛する人に。
引用によって目に見える部分の教養が表に出ているだけでなく、一見そうは見えないような部分に関しても、にじみ出ている箇所はある。


同書P218
「私たちは私たちの弱さをみつめてそれをおそれずに
 相手の方に投げ出す強さを担わなければならないのだ。」


自分を投げ出す=自己投企(アンガージュマン)を連想させる部分だが、彼女は以前HPにて婚約指輪(エンゲージリング)のエンゲージとアンガージュマンが同語源であることを書いている。婚約が約束であると同時に、自己拘束であり、自己投機であり、不確かな明日に対する賭けでもあるという多義性を書いている。英語のエンゲージにあるような幸せを約束してくれる物というイメージを、フランス語のアンガージュによってずらし、自らを拘束する不確かな賭けというイメージをかぶせる。


「AはBである」の「である」にデリダハイデガーが「×」を付けるとき、AはBであるのでも、AはBでないのでもなく、AがBであるかないかという問い自体の無効性が示される。これはカントのアンチノミーの変奏だが、石井ゆかりも相談者の相談が二律背反に陥っていることを指摘し、問いそのものをずらす。より正確には、いま目の前にある偽物の悩みから、より深い本物の問題点へと掘り下げていく。


同著の「はじめに」によると、占い師の元へは上手く行っていない恋の相談が持ち寄られ、上手く行くかどうかが尋ねられる。上手く行くと答えれば、相談者の恋は上手く行くのか、上手く行きませんよと言えば、相談者は納得してあきらめるのか。その両方をなんとなくおかしいと感じるところから、この本は始まり、ある悩みが発生する時、その悩みが持つ意味を読み解いていこうとする。例えば「嫉妬」の章に、このようなサブタイトルの段落がある。


「元カノ」は許せないけど、
「彼のおばあちゃん」は許せる。


彼が自分以外の女性と親しくしている時、その相手が元カノだと許せないが、彼のおばあちゃんだと許せるのは何故か。この章において、相談者の持ち寄った元カノに対する悩みは、相談者自身の自信の問題へ、そこからさらに相談者と彼氏との関係性の問題へと問いが移り、悩みや問いの質自体が変わっていく。


恋愛マニュアルや恋愛のテクニック本ではなく、自分が恋愛に、パートナーに何を求めて何を差し出せるのかを考える自己分析本だといえる。就職活動に例えるなら、一流企業の内定をよりいっぱい取るためのマニュアルではなく、そもそも自分がやりたい職種はなんなのか、自分に向いている業種は、自分に合った労働形態はどのような物かを考える本で、一見遠回りに見えるこれらの考察こそ幸せな自分を作り上げる上では近道であると思う。