大きな物語

>いずれにせよ、私は「大きな物語」を求める
>「大きな物語」を提示するものが、「文学」であるとも思っている
>しかしゼロ年代の文学作品は、「小さな物語」に自足したものばかりではないか
>「小さな物語」に埋没し、内閉し、融和し、快感を感じ、果てること
>私はそれを拒絶する
>各個人の私的な生活へと埋没し、人間の快へと奉仕する卑小な文学を拒絶する


この文脈での大きな物語は戦争だと思う。本当に大きな物語を提示したければ、中東でもチベットでも行って現地からの情報を発信すれば良いと思う。


週刊金曜日でルポタージュ大賞を取った「ルーマニア・マンホール生活者たちの記録」ルーマニア・マンホール生活者たちの記録を読んで衝撃的だったのは、活字が写真に勝てない現実を目の前に突きつけられたからだ。著者のことを悪く言いたくないし、まあ立派だと思う。私と同世代で、会社員を辞めて突如ルーマニアに行ってルポを書くため2・3年そこに暮らした決断力と行動力には頭が下がる。けれどもそこで書かれている情報は、日本人が日本にいながら得られる情報と、その延長線上にある想像の範囲内で、まあ貧しい国の人たちは苦労しているんだろうなぁという感じしかしない。何のコネクションもなく現地に入った著者には、現地のジャーナリストや知識人や政治家にインタビューする機会もない。現地の子供達としゃべり、現地の子供達と生活する中で、小学生レベルの現地の言葉なら通訳なしで会話できるぐらいになった著者は、結局現地の大人からはほとんど情報を得ていない。そして、いくら現地の情報でも、3歳や8歳の子供達から得られる情報は内容が薄い。正直、活字を読んだだけでは、本当に著者が現地に行ったのか、日本でロイター通信を読んで想像で書いたのかすら判別できない。けれども、その活字の横に添付された写真がルーマニアのマンホールに住むネズミや子供、地下に転がる残飯や汚水や毛布の生々しさを伝えていて、確かに現地でなければ撮れない写真になっている。ピューリッツアー賞的な戦場や紛争地域に行って現地の様子を伝えるといったときに、活字では写真に勝てない、活字では現地に行ったことすら伝わらないという現実に衝撃を受けた。