青春について

「番頭はんと丁稚どん(1960年制作)」
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23059/
を見ても分かるように、ある時代において、教育とは
家を出て、他の家に丁稚として働きに出ることであった。
実家の家業が仮に大工だとして、親元で親から大工としての技術を習うだけでは、いつまでも親方の息子である坊ちゃんであり、親方の下で働く若い衆から坊ちゃん・若として大事に扱われてしまう。そこで丁稚として他の大工の家に働きに出ることで世間の厳しさを教えてもらうというのが教育だった時代があるわけだ。


学校教育や義務教育が明治時代(1868年)から始まって、それ以来、徒弟制度的な教育がなくなったと学校教育で育った俺ら世代は思ってしまうが、徒弟制度を前提としたような教育・若者を描いた映画が1960年地点で公開されて大ヒットしているのをまず知らなくては成らない。


第二次大戦中に青春を送った世代の青春を描く時、学童疎開集団就職が出てくるが、集団就職的な物は1970年代に駅弁大学と揶揄されるような大学設立ラッシュが生まれるまで続く。1970年代に大学の進学率が飛躍的に伸びて初めて学園ラブコメというジャンルが生まれる。青春ドラマの舞台が徒弟制度や集団就職的な労働の現場から、学校へと移行する。


1970年代以前の、もっと言えば明治大正期において高校や大学へ進学するのは一部のエリートで、その種の人達の青春というと、自由民権運動から始まって安保闘争まで、左翼的な政治活動をするのが青春のアイテムだった。その手の活動は政治的な信念に基づいて行われるというより、ある種の気分やファッションとして行われた。イスや机を高く積んでひもでしばって固定し、バリケードを作って立てこもるなんてのは、政治的な意思表示でなく、反抗期の若者にとってオシャレでカッコ良く、それをするとモテるからやる類のことだった。だって、立てこもるメンバーの中にかわいい女の子やカッコイイ男の子がいれば、自分もメンバーに入りたいと思うじゃん。そういう類のことだと思う。


1980年代の初期に、政治闘争と無関係な青春像が描かれた。それまでの純文学やアングラ演劇では政治活動こそ青春を描く必須アイテムだったのが、夏は海でサーフィン、冬は山でスキー、普段はテニスとドライブとデート。そういう青春像がこの時期に描かれる。街にはマドンナのマテリアルガールが流れ、ある種の大学生バブルが東京に発生し、明るくポップな物質文明を消費する若者像を描いてデビューした人たちがこの時期に増える。


そうやって世に出た80年代初期デビュー組の人たちが、最近なぜか急に政治回帰していて、それは何故なのかと雑誌で東浩紀宮台真司に尋ねていたりする。無意味を売りにしていた高橋源一郎反戦という形で政治的文脈に乗ってしまう。そのことが文学者としての高橋源一郎の価値を落とすことに気付いているのかと吉本隆明に批判されたりする。この手のことで最近一番ショックだったのは鴻上尚史の「スナフキンからの手紙」を読んだときで、鴻上も80年代に出てきた政治と無関係なポップな若者を描く書き手として出てきた人だと俺は思うのですが、やたら古いタイプの左翼的な気分を描いていて、時代とのずれ方が変だった。80年代初期の新しい時代を新しい感性で描き切っていた鴻上と比べて、今の鴻上がえらく後退しているように思えた。鴻上個人に関して俺の個人的な思い入れで言えば、国費でイギリス留学した時、鴻上という脚本家を留学させたはずだったのに、演技の勉強をして帰ってきて、鴻上という役者になって帰ってきたところからおかしくなっただろとか、早く役者辞めて脚本家に戻れとかあるのですが、80年代初期に出てきた人達が、何故いま政治回帰で、しかもやたら古臭い政治になってしまうのは何故なのかを考える。


60年安保で学生達の新左翼運動が盛り上がった時、既に共産党社会党などの旧左翼は新左翼の敵であり、古かったわけで、その新左翼浅間山荘事件で終わり、新左翼的なものを後ろへ追いやる形で出てきた80年代の人達が、ソ連ベルリンの壁も崩壊したいま、新左翼より古い55年体制的なところへ行くのはなんなのかと。


まあ、そんなどうでもいい事を書いてみたりもする。