プロレスが面白い

【衰退】プロレスの未来と復興について2【以降】
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/wres/1269006682/
日々の生活で気が狂いそうに成りながらも、何故かプロレスが面白く感じる。
何故プロレスを面白いと感じるのかが、上手く説明できないが、自分なりに何か書いて見る。


プロレスは八百長なのか?ガチなのか?台本のあるお芝居なのか?シナリオのない真剣勝負なのか?新日本プロレスのレフリーをしていたミスター高橋氏が書いた、ミスター高橋本は通常「真剣勝負に見せていたプロレスが実際にはお芝居であったことを暴露した暴露本」として知られているが、私個人は、あの本を読んで、今までお芝居だと思っていたプロレスが実は真剣勝負だったんだと感じた。


2ちゃんねるのプロレス板を見ると、いくつのときにプロレスは八百長だと知ったのか?みたいなスレッドがあるが、私の場合逆で、幼い頃八百長だと思っていたプロレスを、年を取ってからガチだと感じ始めた。幼児期にテレビで見たプロレスは、太って歳を取ったおっさんが二人裸で抱き合ってて、不細工な物だった。一方がマットの上に倒れて、もう一方がコーナーのトップに立ってそこからフライングボディープレスをするというつもりなのだが、息が切れて汗だくのおっさんが、コーナーに登ろうとするが、中々登ることが出来ず、汗ですべったりして、コーナーに登るだけなのにやたら時間が掛かって、その間、マットの上に寝ている選手はずっと動かずに待っているわけです。やっとコーナーに登ったおっさんがそこから飛んでフライングボディープレスをするが、息が切れて動けないので、フライングボディープレスを受けた選手が機敏に動いて技を出して、試合を持たせている。そういう試合をテレビで見た幼児の自分は、そんなに動けるなら相手がコーナーに登って飛ぶまで待たなくて良いだろうとか、技を受けた側が元気に動けて、技をかけた側が息切れして動けないのはおかしいとか、思う。大人であれば、レスラーの二人は闘っているように見せようとしているのが分かるし、これは闘いなのだと好意的に解釈するが、幼児の場合、ヤオガチ以前に「闘っているように見せようとしている」ということすら理解できない。何をしているのか、どう解釈して欲しいのかが、理解できない。


ミスター高橋本を読んだとき、タネがバレバレの手品に対して、バレているよと言って良くなった、プロレス業界も風通しが良くなったのだと思った。それと同時に、プロレスにもガチはあるのだと感じるようになった。日本のプロレス史で初期の最も大きな試合は、力道山木村政彦戦だ。柔道家としてヨーロッパやアメリカを転戦し、現地でアマレスや柔道の試合に出て、ブラジルでエリオ・グレーシーを破り、グレーシー柔術誕生のきっかけにもなったプロ柔術家の木村と相撲出身の力道山が、団体の垣根を越えてTVマッチをやり、台本では時間切れ引き分けになるはずが、力道山のブック破りで、力道山の勝ちになった試合だ。プロレスである以上、台本があり事前に勝敗は決められているが、レフリー・解説などを力道山側の人間で固め、両足で木村の首を長時間絞めてスタミナを奪い、それでも台本に従おうとする木村を叩きのめして力道山は勝ちを宣言する。当時、会場に居た空手家のマス大山は、事前に時間切れ引き分けになる台本を知っていたので、怒ってリングに上がろうとしたが、周囲の者に取り押さえられたという。極真空手マス大山氏はプロレスラーをしていた時期もあり、プロレスの仕組みをよく知る人物であったという。


つまり、勝敗を書いた台本があるからといって、相手が台本を守るとは限らない。だからプロレスラーはいざというときのためにガチも出来なければいけない。日本のプロレス史は力道山のブック破りからスタートしている。その後、新日本プロレスアントニオ猪木が、異種格闘技戦で、極真空手のウィリー・ウィリアムスと闘うとき、事前の台本では時間切れで両者引き分けだったのだが、マス大山は最後までその試合に反対し、万一ウィリー・ウィリアムスが負けた時には、みんなで猪木をボコれるように、極真空手の選手・練習生を数百名集めてリングを取り囲んだらしい。このとき、マス大山の脳裏に木村-力道山戦があったことは想像に難くない。アマ格闘技をする木村・大山にとって、プロ格闘技のプロレスは信用できないという思いはあっただろう。故意のブック破りが行なわれる時、そこには選手個人の闘いだけでなく、両者のバックにある用心棒・プロモーター込みの闘い、リアルな金と暴力の世界がそこにあって、ルール・スポーツマンシップに則ったアマチュアスポーツとしての格闘技とは別の、本当の意味でのヴァーリトゥード(何でもあり)、武器制限人数制限なし、人脈権力金が乱れ飛ぶ大人の闘いがそこにあるわけで、そんなプロレスの方がリアルでガチだと思ってしまう。


2ちゃんねるのプロレス板・格闘板を見ると、プロレスは八百長で、総合格闘技はガチという常識が時々見受けられる。総合格闘技K-1UFCやボクシングや柔道やアマレスや相撲などに置き換えても良い。一般論として、そりゃそうだろうと思う。その上で、プロレスと総合格闘技の間に当然違いはあるのだが、実は日本とアメリカの違い、日本のプロレスとアメリカのプロレスの違いや、日本の総合とアメリカの総合の違いの方が、実は大きいのではないかと思わなくもない。


日本で総合格闘技ファンが総合を語るとき、素手の一対一で一番強い格闘家を決めるのが総合だという話をすることが多い。ボクシングのような打撃もあり、アマレスのようなグラップリングもあり、投げ技、関節技もあり、すべての攻撃が許された中で、一番強い者を決めるのが総合だと日本人は考える。ところがネット上に、日本語のできるアメリカ人や韓国人が参加してくることがある。アメリカや韓国には徴兵制度があり、すべての国民が義務で軍人としての訓練を受け、殺人術を学んでいる。目潰しや金的、ロープやスコップなど日用品を使った白兵戦、殺人術が公開されている国民の目で総合を見ると、猪木-アリ状態で寝転がって相手に股を開いている人は、何故金玉を踏み潰されないのか?タックルしてきた相手の背骨・首筋にヒジを打ち下ろさないのは何故なのか?総合ルールと言っても、国民の義務で殺人術を学んでいる人たちにとっては、ルールのある格闘技であって、ノールールの白兵戦ではない。柔道やアマレスと同じ格闘技であって、すべての格闘技の最強を決める闘いではない。


少し話を変えると、プロレスの歴史において、1900年〜1930年頃はプロレスはガチであったらしい。俗にカーニバル・レスリングと言われる奴で、サーカスの見世物の一つとして、お客さんの中から喧嘩自慢を募って、レスラーとお客さんが闘ってお客さんが勝てば賞金が手に入るという試合をしていた時代がある。私見ですが、これは第一次大戦・第二次大戦の時期で、徴兵制があり、国の若い男なら誰もがアマレスの素養があるという条件下で成立する興行だと思う。中学や高校の義務教育でアマレスの授業があって、大戦間の時代で腕力のある人間が尊敬される時代に、自分達が生まれ育った地域、自分達が通っている学校で一番強い腕自慢が出ていって、カーニバル・レスラーに負けたら、何百人いるこの学校で一番強い奴でも歯が立たなかったカーニバルレスラーってすげーよなとなるわけです。プロレスの台本に勝敗が書かれ始めるのは、テレビ・映画などの映像メディアが誕生し、対戦相手と協力することでしか成り立たない派手な見せ技が人気を博するようになってからだとされます。そもそも八百長の根拠とされる台本(ブック)は、テレビや映画の撮影であれば、絶対に必要な物であり、試合の勝ち負けはともかく、放送のタイムスケージュール、番組のテレビ欄は、新聞にも載せなければいけない。TVの生放送の終了時間と、試合の終了時間を一致させようとすれば、必然的に対戦相手との協力が必要になってきます。


アメリカのボクシング・K-1UFCのビッグマッチは、主にラスベガスで行なわれ、試合の勝敗が賭けの対象になり、ギャンブルの売上げが主な興行収入になるので、八百長や不透明な判定や不正があれば、ギャンブルの胴元が批判されるため、試合前後のグローブやシューズのチェック、選手に対するドーピング検査などかなり厳密に管理されます。
対する日本のプロレス・K-1総合格闘技は、TV局からの放映権料が主な収入源で、各テレビ局ごとにプロレス団体があったり、キックボクシング団体があったりします。猪木-新日-テレビ朝日・馬場-全日-日本テレビ時代には、両プロレス団体の取締役にテレビ局の社員が入り、プロレス団体の大株主にテレビ局が入って、実質的にプロレス団体はテレビ局の子会社でした。
アメリカの格闘技は賭け事の対象である以上、判定決着をするにしても、第三者に対して客観的な数値データを示さなくてはいけない。このラウンドはA選手がクリーンヒットを何発入れて、B選手はクリーンヒットを何発入れたから、A選手の方が何ポイント有利だといったような、数字を出して、後から映像を使った検証も可能な判定の根拠を示さなければいけない。これは限りなくアマチュアボクシングに近い。マイク・タイソンは、アマチュアボクサー時代にオリンピックアメリカ代表をかけたトーナメントの決勝で、相手選手からダウンを奪い、自分は一切ダウンしていないにも関わらず、クリーンヒットのポイント差で負けて、アメリカ代表を逃している。完全にKOできなかった場合、パンチが効いている効いていないという数値化出来ないデータでなく、クリーンヒットの数でのみで判断されるので、体重が乗ってないパンチでも手数を出してガードの向こうに届けば、寸止めパンチだろうが皮膚の上かすっただけだろうが、一発は一発として数えられる。
日本の場合、テレビの視聴率、チケットの売れ行き、こちらが何より優先される。プロボクシングと同じで、いくら強くても、人気がなくて、スポンサーが付かなくて、チケットが売れなければ、試合に出れない。当然、試合を煽るために、試合前の対戦相手との派手な言い争いや、試合に到るまでの因縁・ストーリーは重要だし、試合も派手なKOが要求される。負けが続いても派手で面白い試合が出来ていれば次につながるが、地味で詰まらない勝ち方を続けていると試合に出れなくなる。アメリカの場合、詰まらない試合をしても、勝ちさえすれば、その選手に賭けていたギャンブラーは儲かるわけで、儲かりさえすれば、またその選手に賭けるギャンブラーは出てくる。賭けが成立すれば、試合は組まれる。


アメリカの格闘技と日本の格闘技ではビジネスモデルが違う。同じように日本のプロレスとアメリカのプロレスも微妙に違うのではないか。アメリカで最初に、勝敗の決まったプロレスをしたのが、諸説あるがルー・テーズ選手の時代だろうと言われている。日本でのルー・テーズ力道山の試合を見ると、力道山の空手チョップに対して、ルー・テーズはレフリーに反則を取るように抗議している。もちろん、この時代、台本はあるのだけれども、まだ、レスリングルールの試合であって、打撃を使うのは反則だという前提がルー・テーズの中にはある。日本人はアマレスルールに馴染みがなく、レスラーが空手チョップを使うことに違和感を感じていないが、義務教育や徴兵制の中でアマレスを経験している西洋人にとって、レスリングの試合で打撃を使うのは、台本ありのショーだとしても違和感があるわけです。ボクシングで台本ありの試合をしたとして、ボクサーがバックドロップを使ったら、お客さんが違和感を感じるでしょう。力道山以前の日本のプロレスはプロ柔道の木村選手なので、日本のプロレス史の中で、プロレスの観客がアマレスルールを理解した上で、アマレスルールのプロレスを見た経験がないわけです。ヤオとかガチとか言う以前に、アマレスルールを理解していないし、アマレスの技も理解されていない。空手チョップやドロップキックなど、殴ったり蹴ったりするのがプロレスだと思っている。