カツアゲ

高校の下校時にショートホームルームで担任が言った。

「この近くで小学生によるカツアゲが発生しているので、下校時はなるべく一人にならず集団で帰るようにしてください。」

当時、俺達高校生じゃん。小学生にカツアゲされるのを恐れて集団下校ってなんだよと思ったわけ。何でも小学4年生から6年生からなる男女6人組が中学二年生の男子二人を刃物で脅して、合計二千円カツアゲしたらしい。

ツッコミ所が多すぎて、どこからツッコんで良いか分からないが、まず、小学生にカツアゲされる中学生男子のカッコ悪い感じ。そして、被害に会ったのが男子中学生二人という部分。一人だったら、走って逃げれたと思うわけ。二人だと「友達を置いて一人で逃げた」と言われるのが嫌で、逃げるという判断が遅れる。小学生に「金を出せ」と言われて、友達の手前、逃げるわけにも行かず「おいおい、何言ってんだよ」と余裕ぶって、小学生の相手をしているうちに、6人に囲まれて刃物を出されたパターン。

問題は、刃物のサイズで、小学校で使うプラスチックの安全ハサミぐらいなら余裕だけど、20センチのアイスピックとか、出刃包丁とか出されると、さすがに相手が小学生でも6人とも20センチ大の刃物持っていれば、刺す気がなくても逃げるときにハプニングで刺さる可能性がゼロではない。

最終的に、小学生が中学生二人からカツアゲした金額が、一人千円づつの合計二千円という小学生値段な所まで含めて、結局勝ったのは、値段交渉に成功した中学生なんじゃないかとか。下校時の中学生の財布の中に入っている金額を考えれば、昼飯代か下校時の買い食いの費用ぐらいの物で、一人千円が妥当と言えば妥当かも。

不謹慎だから笑っちゃいけない

フライデーだったかフォーカスだったか、ずいぶん前に写真週刊誌に載っていた写真。30代後半のおっちゃんが、真夏の炎天下で、野球帽をかぶって、サングラスをして、タンクトップを着て、短パンにサンダル姿で、両手に刃渡り20センチと30センチの鎌を一つづつ持って立っていた。

写真に付けられた文章の出だしが、30歳を超えて、野球場以外で野球帽をかぶった男性は怖い。過去に、殺人を犯した精神薄弱者や、マフィアのボスの例を挙げて、野球帽が持つ幼児性について色々述べられていた。

その写真は覚醒剤の常習者が、警官に職務質問をされて、無言で警官二人の首を鎌で切り落とす事件の30分前に撮られた写真だという。写真を撮ったのが、その常習者の友達で、警察に匿名の通報を入れた人物。警察は彼を薬の売人と見て、捜査しているという。

通報は「近所に怪しい人がいるから調べて欲しい」と匿名で成された。野球帽・サングラス・タンクトップ・短パン・サンダル・両手に鎌の姿を見た40代のベテラン警官は「応援を呼ぶから、しばらく待機しろ」と言ったが、警官2年目の数週間後に成人式を迎える警官が「大丈夫です。あの服装はただの草むしりですよ。」と言って、二十代の警官と二人で職務質問をしたら、常習者は無言の無表情で警官の首を切り落としたという。

悲惨な事件だし、笑ってはいけないのだが「ただの草むしりですよ。」がおかしくて、笑ってしまう。

犯人は犯行前に「テレビを見ていたら、アナウンサーが俺の悪口を言うから、苦情の電話をテレビ局に入れたが、相手にされなかったため、今から鎌を持ってテレビ局に抗議に行く」と、通報を入れた友人に電話で伝えた。薬の売人と見られる友人としては、自分の顧客が犯罪を犯して逮捕されると、携帯電話の履歴などから、売人である自分にまで捜査が伸びるから、それを防ぎたい。そこで事が大きくなる前に匿名で警察に通報したとみられている。

通報を入れた友人が言うには、クスリ云々抜きに彼は「ほんまもんだ」テレビ局に行くと言ったが、彼の家からテレビ局に行くには電車を乗り換えなくてはいけない。彼の能力では目的の駅で降りて乗り換えるのは無理で、下手すると目的の駅までの切符を買う事すら不可能で、そうなるとパニックを起こしてしまう。そうなる前に対処して欲しかった。

不謹慎な言い方だが、売人さんというのは、顧客が犯罪を犯して逮捕されないよう、手渡すクスリの量を管理して、使用量を一定の範囲内に収めているので、複数の異なるルートから買い集めるタイプの顧客を嫌うのだなぁとか、顧客がいよいよおかしくなって、異常な行動が目に余るようになると、病死に見えるような死に方をする毒を混ぜてクスリを渡すのだなぁとか、思う。

菊地毅選手の言語能力

インカレ(大学生選手権)でアマレス日本一になった菊地毅選手が、プロレス入りして、活躍後、長年の試合のダメージが蓄積して、パンチドランカーの症状=言語障害が出ているという名目でノアを解雇に成り、本人は「言語障害など出ていない」と主張して、フリーで日本のプロレス団体を渡り歩き始めた頃の話。


所属を離れてフリーになったことで、自ら売り込みをして、知名度を上げていかなければ成らなくなった菊地毅選手が、個人HPを立ち上げ、携帯電話を使って遠征先からBLOGの更新をしていた。当時の携帯は、送れる文字数に制限があって、一回に100文字ほどしか送れなかった。当時は芸能人BLOGが出始めた頃で、末尾に決め台詞を入れるのが流行っていた。元プロボクサーの竹原慎二さんなら「ほじゃの」、亀田史郎さんなら「わしは、そうおもっちょる」。菊地毅選手は、若い頃のキャッチコピーが「爆弾小僧」で、小さな体で大きなパワーが売りだった。そこで菊地選手はブログの末尾が「爆発!」となるように設定した。携帯の設定上、ブログの一つの記事が100文字で末尾三文字が「爆発!」本文は97文字。そこへ真面目な菊地毅選手は千文字程度の長文を携帯で一斉送信してしまう。


「降り積もる枝の雪も、自らの重みで落ちては流れ、辛かった雪の季節の移ろいもまた、記憶と共に水に流れ去ってゆきます。枯れ枝のつぼみも芽吹く季節、日々増してゆく暖かさを人肌に感じる昨爆発!」

「今、皆様のご健勝とご多幸を祈念致しつつ、小生のささやかな活動報告を申し上げる所存でございます。来る○月○日におきまして、○○県立○○体育館にて、試合をさせて頂く運びと爆発!」

「なりました。つきましては、試合に向けてのプロモーションも兼ねて、開催地のそばにある孤児院の方へ慰問をさせて頂いた次第であります。写真はプロレスファンで、菊地毅のファンでも爆発!」

「あるという車イスの少女とわたくしの2ショット写真です。彼女は12歳の白いドレスを着た色白の少女で、普段は自由に散歩もできないとのこと。及ばずながらも菊地が少女の車イスを爆発!」

「引く形で孤児院の中庭を小一時間ほど散歩させて頂きました。・・・(続く)」


現在は既に削除されていますが、内容的には、こんな感じのブログでした。当時は、芸能人の公式ブログの中でも断トツで頭が悪くて、これで言語障害じゃないとしたら、何を言語障害と呼ぶのだと(笑。ちなみに遠征に行ってない時の、家のパソコンで書いているブログは、至って普通の内容でした。芸風と言うか、ファイトスタイルも変顔でアホキャラなのに、この内容というのが衝撃的で、賢いのか馬鹿なのかよく分からないと2ちゃんねるで話題になってました。

杉田陽平さんの個展

タイトル「もしも、印象派具体美術が心地よい関係を保ったなら」

いまの日本の現代美術界で、私個人がすごいと感じるのは、黒瀬陽平さんと杉田陽平さんで、マクルーハンが言葉はメッセージとマッサージだと言ったが、メッセージの黒瀬さんと、マッサージの杉田さんで、コントラストがハッキリしていて面白い。

黒瀬さんの美術批評は、ある特定の一枚の絵が美術史の中でどのような位置にあるのか、その絵が描かれた時代の主要な美術運動の中核にあったのか、対極にあったのか、美術運動を生み出す流れの中にあったのか、終わらせる流れの中にあったのかを論じると同時に、その絵が画家個人の個人史の中で、どのような問題意識の中で描かれたのかを論じる。失恋の中で描かれた絵なのか、絵のモデルとなる女性との恋が始まるきっかけとなった絵なのか、人生のどん底の時期に貧困の中で描かれた絵なのか、人生の頂点の時期に金と名声にあかせて描かれた絵なのか、ある画家の個人史の、どの地点で描かれた絵なのかを論じながら、美術史や個人史や社会史との交点として作品を論じる。その絵が描かれた時代の社会問題、戦争や人種差別や災害や公害や貧困が、美術作品としての絵に、どのように反映されているのかが語られる。黒瀬さんにとって良い作品とは、作家の実存を深く掘り下げた作品で、その時代のほとんどの人にとって興味を持たれていない主題であるにも関わらず、その作家にとって自分の人生の奥深くに突き刺さる、譲ることの出来ない重要な問題設定がなされている作品は、良い作品だとされる。

杉田さんの絵は、たぶんそれとは対極で、画家としての自我や一貫性や実存はほぼ存在しない。美術史や社会史、歴史や時代や社会問題にもほとんど関係しない。目の前にいる特定の個人を喜ばせるためにだけ絵が描かれる。その特定の個人はお客さんかもしれないし、パトロン的な人かもしれないし、友人や家族や恋人かもしれない。Aさんを喜ばせるために、aという絵を描き、Bさんを喜ばせるために、bという絵を描く。aとbの間に、画風や作風の一貫性はない。目の前にいる人を喜ばせることしか考えてない。

私が初めて会った杉田さんは、分厚いセルフレームの眼鏡をかけて、ボサボサの白髪混じりの前髪で、真夏の暑いさなか、ペラペラの薄っぺらい生地で出来た安っぽいスーツを腕にかけた、太った背の低い50代の人生に疲れたおじさんだった。おそらくは営業でどこかの企業を回って、取引先の担当者に「景気、悪ぅてあきまへんわ、ほんま」とか言って同情をかった帰りだったのだろう。

私が二度目に会った杉田さんは、真冬の寒い時期に、黒のタンクトップにジャケットを羽織ったハタチ前後のスラッとした細マッチョなチャラ男だった。眼鏡なんて当然掛けるはずもなく、ときおりジャケットをはためかせて、肩や胸の肌を見せる。ルックスに自信が無ければできないジャケットプレイ。目の前の若者が、半年前に見た初老の老人と同一人物だと理解するのにかなりの時間が掛かった。

それ以後も、ゆるふわな天然パーマがこぼれるニット帽に、厚手のセーターを合わせて、抱きしめたくなるようなヌイグルミさんキャラになったり、何をやってもダメな冴えない三枚目キャラになって周囲に優越感を与えたりと、多種多様な杉田さんを見たし、短く刈り上げた前髪を立たせて、細く吊り上がった眉と鋭い眼光で、てっぺんを取りに行くアーチストモードの杉田さんもいると、写真付きで噂を聞いたこともある。

要は目の前にいる誰かに求められる人物像を演じるから、会うたびに別人格の杉田さんを知ることになるのだが、私の知る限り、この手のタイプの人は出世が早いし、上流階級の優秀な人に多い。会社の中で、上司の前ではドジでカワイイ部下を演じ、部下の前では頼れる優秀な上司を演じ、奥さんの前では良き夫であり、子供の前では良き父であり、親の前では良き息子である。社会生活を営む上でそれらのロールプレイは必要なわけだが、優秀な人がそれを演じた時に、振れ幅が大きすぎて同一人物に見えなくなる時がある。杉田さんの行動のキャパが、私の認識のキャパを超えてしまうのだ。

驚くべきは、行動様式の幅の広さでなく、相手が求めている人物像を短い会話の中で短時間で探り当てる能力だ。黒瀬さんが作家の実存を掘り下げることで、作品の真意に到達するとすれば、杉田さんは顧客の実存を掘り下げることで、その人が求める人物、その人が求める作品に成りきる。自分が何を求めているのか、顧客本人すら気づいてない何かを絵を通じて言い当てる。

昔、テレビ東京のテレビチャンピオンという番組で似顔絵職人選手権という企画があった。複数の似顔絵職人が有名人の前で似顔絵を描いて、誰の絵が一番気に入ったか本人に選んでもらう企画だった。最初の有名人が元祖レースクイーン岡本夏生で、他の似顔絵作家が黙々と写実的な似顔絵、石膏デッサンのような絵を描いていく中、その似顔絵職人さん(たぶん小河原智子さんだと思う)は「好きな動物は何ですか?」などと岡本夏生さんに話しかけながら描いて「猫が好き」という岡本夏生に「じゃあ、夏生さんを猫にしちゃって良いですか?」と言って、男性に媚びるセクシーな女性の隠喩でもある、猫になった岡本夏生を描いて一勝。他のタレントさん相手にも一人デフォルメ路線で勝ち進み、最後のジャイアント馬場選手の似顔絵は、キュビズムタッチの抽象画で勝負をかける。他がすべて写実的な絵の中、一人だけキュビスムの抽象画。ジャイアント馬場選手は絵を描くのが趣味で、画家になるのが夢だったプロレスラーだ。馬場選手だってテレビカメラが回っている中で、自分がカメラにどう映るのかを意識しないわけが無い。プロレスラーと言えば、粗暴で知性や教養が無いように思われるけれども、ここはキュビズムの絵を選ぶことで、知性や教養のあるジャイアント馬場を見せつけたいと考えたとしてもおかしくない。馬場さんはキュビズムの絵を選び、デフォルメ路線の似顔絵職人が優勝する。他の絵師が石膏デッサンのような絵を描く中、一人だけモデルに話しかけて、モデルが描いて欲しい自画像を引き出していく。その絵はモデルの外見とは、ほとんど関係が無い。モデルの内側にある理想を描いた絵画だ。

杉田さんの絵に対する姿勢も似顔絵職人と近い気がする。絵の中に画家の実存でなく、顧客の実存が深く描かれている。仮にその顧客が何十才だとして、その顧客が生まれた時代と、その顧客が育った時代と、その顧客が生きているいま現在は、それぞれ微妙に異なっていて、幼児期と大人になってからでは社会におけるポジションも異なっていて、その顧客を育てた親や祖父母は、その顧客よりも何十年も前に生まれていて、その祖父母が生まれ育った明治・大正期や第二次大戦前後の時代は、祖父母や親を通じて、その顧客にも何らかの影響を与えていて、その顧客の人生や実存を掘り下げることで、時代や社会と絵が間接的につながっていく。杉田さんの絵を批評しようとすると、誰に向けて描いた絵なのかという情報が無いと、難しい気がする。

2ちゃんねる芸術デザイン板で、杉田さんのスレッドはここ一年以上、常に上位にあって、スキャンダルにまみれている。2ちゃんねる自体が悪口を書き込むためのHPであり、ここで悪口を書かれるのは有名税だとしても、杉田陽平スレッドに書かれる盗作疑惑は、他の画家のスレッドと比べても穏やかではない。論点は二つ。杉田さんの絵画の写真トレース疑惑。杉田さんの絵画に付けられたアーチスト・ステイトメント(作家による作品説明文)の無断引用疑惑。

写真トレースに関していえば、写真の発明&普及以後の写実絵画に価値はあるのか問題になるわけで、アニメやサウンド・ノベルの世界ではファンによる聖地巡礼というのが行われていて、アニメに出てきた場所に行って、同じ背景で写真を撮るのが流行っている。アニメファンの中では、アニメの背景は架空の都市であっても現実の都市をロケして撮った写真のトレースだと、みんな知っているわけです。写真をトレースした方が早く正確に描けるのに、目で見てデッサンしたはずだと信じ込む方がナイーブ過ぎるとも言える。

それと同時に写真の著作権問題もそこにあるわけで、自分で撮った写真か、他のカメラマンが撮った写真の無断トレースかで、話が分かれる。通常、漫画やアニメでトレースされる写真は、野球場やバスケのコート、高層ビル群や平屋の町並みなど誰が撮っても同じような絵になる匿名性の高い写真であることが多い。対する杉田さんの絵の元ネタとされる写真群は、幻想的で美しい芸術性の高い海外のアートフォトで、カメラマンの記名性が高い。そういう意味で言い訳がきかないっちゃきかないんだけど、ある種、日本の翻訳文化問題とも関わってくる。杉田さんは何万円もする高価な洋書の写真集を何百冊も持ってて、それは大学教授が一冊何万円もする洋書の学術書を輸入で手に入れて、それらの文献を日本語に翻訳翻案して紹介することで飯を食っているのと、似ていると言えば似ている。海外の最先端の学術動向を日本に紹介するのが学術専門家の仕事とするなら、引用元や参照元を記載する必要はあるが、海外の動向を無視して成立している世界でもないわけで、何万円もする高額書籍を何十冊何百冊輸入する手間をかけているわけで、ネットのコピペで済ましているわけでもない。

オリジナルとコピーの話をすると、絵から絵を生み出す模写は、同一メディア内の移動だから、オリジナリティが低いとして、写真から絵を起こすのは、それよりも少しオリジナリティが高いと言える。現実の風景から写真を撮るのは、それよりもよりオリジナリティが高いとして、写真や写真の連続からなる映画は、オリジナルと呼べるのか。写真で街の風景を撮るとして、ビルがある、車がある。ビルも車も人工物である以上、デザイナーがいるわけで、ビルや車の外観を作ったデザイナーの許可を取って写真を撮っているのか?人混みを撮るとき、人々が服を着ている。その服が人工物である以上、デザイナーがいるはずで、一人一人が着ている服のメーカーに問い合わせて、服の型番を調べ、デザイナーに許可を取っているのか?カメラマンが厳密に著作権を行使し始めると、カメラマンもまた別の角度から、とばっちりを食らう世界があって、著作権を厳密に行使しすぎると映画もテレビドラマも撮影出来なくなるのは間違いない。

写真の発明以後の具象絵画のオリジナリティを語った時に、輪郭が仮に写真のトレースだとして、色彩を変える方法がある。とわ言えネガフィルムみたいな色彩にしても違和感が残るわけで、仮に紫の壁を塗るときに、パレットの上で赤と青の絵具を混ぜるのではなく、細かい赤の点描と細かい青の点描をキャンバスの上で混ぜることで明度や彩度を上げたまま中間色の色彩を出すというベタに印象派技法もあれば、筆の動きや絵の具の盛り上がりを残して、グネグネした油絵のマチエールを前面に出す描き方もある。遠くから絵画の全体を見れば写真にしか見えない絵が、近くで見ると雑で大雑把な輪郭や大胆な筆運びで抽象画にしか見えないこともある。写真にはない、筆やペインティングナイフの動きを眺めるのも絵画特有の鑑賞法だと思う。

ステイトメントに関して言えば、書き言葉に無頓着な画家が、活字のルールを知らずに引用してしまったのが現実だと思う。変な話、今回の個展を紹介するHPにしても、印象派具体美術協会に関する説明文に引用符はある物の、引用元が明記されていないという単純なミスがある。※1、※2などと脚注番号を入れながら脚注そのものが無い。おそらくワードか何かで作った物をブログにコピペしたら記法が違ったのだろう。引用元はおそらくwikiで、本来なら引用元にリンクも貼っておけば親切だけれども。無邪気で悪意が無いことだけは伝わってくる。

杉田陽平公式 http://ameblo.jp/sugiheiattack/entry-12022772977.html
会場 みんなのギャラリー http://minnanog.wix.com/minna#!exhibition/c199t

場所 千代田区平河町1-1-9クリエーターズデン2F
http://minnanog.wix.com/minna#!contact/czpl
半蔵門駅1番出口を出て右側の交差点を渡ったオリジン弁当で右に曲がった半蔵門ギャラリーの二階。

会期2015年5月15日〜25日(5月20日休み)
時間12時〜19時(初日は15:00−21:00 / 最終日は12:00−17:00)

文系の学問は理系より発達してない?

文系より理系が偉いみたいな一般論の中で、よくある話として出てくるのが
「理系の学問は数十年前より急速に発達して、自動車やテレビや携帯電話やインターネットを生み出したが、社会科学を見ると紀元前の古代ギリシャ時代でも直接民主制は生まれていたわけで、ここ2000年ほど全く発達していない」
みたいな言い方はよくある。理系は便利な発明品を次々生み出しているけど、文系は何も生み出していない、みたいな話。

でもね、貨幣経済一つとっても、江戸時代は年貢を米で収めていて物々交換だったわけだ。百歩譲って、金貨や銀貨や銅貨はあったとして、紙幣は無かった。厳密には幕末には藩が藩札発行していたとかあるが、紙幣の普及が明治時代だとして、不換紙幣の普及なんて、ドルショック以降だから1971年以降。証券だ株式だデリバティブだと新しい金融商品の発明は、続いている。
理系の発明品は、マッチやライターが分かりやすいが、自然環境に対する人間側の勝利だから、利便性が非専門家にも享受できるようになっている。
対する文系の、特に社会科学絡みの発明は、人間の人間社会に対する勝利だから、ゼロサムゲームの要素があって、金融商品の取引に強い専門家は、専門的知識を持たない庶民から利益をかすめ取ることができる。文系の学問が発達し、社会のシステムが高度に複雑化すればするほど、庶民が苦しむという側面がある。社会科学の発明品に対して非専門家の庶民が利便性を体感する機会がほぼない。
文系から社会科学を除いて、純粋に人文科学に限定したとしても、高度に複雑化した法制度とか、複雑化したプログラミング言語とか利便性をあまり感じないわけで。