杉田陽平さんの個展

タイトル「もしも、印象派具体美術が心地よい関係を保ったなら」

いまの日本の現代美術界で、私個人がすごいと感じるのは、黒瀬陽平さんと杉田陽平さんで、マクルーハンが言葉はメッセージとマッサージだと言ったが、メッセージの黒瀬さんと、マッサージの杉田さんで、コントラストがハッキリしていて面白い。

黒瀬さんの美術批評は、ある特定の一枚の絵が美術史の中でどのような位置にあるのか、その絵が描かれた時代の主要な美術運動の中核にあったのか、対極にあったのか、美術運動を生み出す流れの中にあったのか、終わらせる流れの中にあったのかを論じると同時に、その絵が画家個人の個人史の中で、どのような問題意識の中で描かれたのかを論じる。失恋の中で描かれた絵なのか、絵のモデルとなる女性との恋が始まるきっかけとなった絵なのか、人生のどん底の時期に貧困の中で描かれた絵なのか、人生の頂点の時期に金と名声にあかせて描かれた絵なのか、ある画家の個人史の、どの地点で描かれた絵なのかを論じながら、美術史や個人史や社会史との交点として作品を論じる。その絵が描かれた時代の社会問題、戦争や人種差別や災害や公害や貧困が、美術作品としての絵に、どのように反映されているのかが語られる。黒瀬さんにとって良い作品とは、作家の実存を深く掘り下げた作品で、その時代のほとんどの人にとって興味を持たれていない主題であるにも関わらず、その作家にとって自分の人生の奥深くに突き刺さる、譲ることの出来ない重要な問題設定がなされている作品は、良い作品だとされる。

杉田さんの絵は、たぶんそれとは対極で、画家としての自我や一貫性や実存はほぼ存在しない。美術史や社会史、歴史や時代や社会問題にもほとんど関係しない。目の前にいる特定の個人を喜ばせるためにだけ絵が描かれる。その特定の個人はお客さんかもしれないし、パトロン的な人かもしれないし、友人や家族や恋人かもしれない。Aさんを喜ばせるために、aという絵を描き、Bさんを喜ばせるために、bという絵を描く。aとbの間に、画風や作風の一貫性はない。目の前にいる人を喜ばせることしか考えてない。

私が初めて会った杉田さんは、分厚いセルフレームの眼鏡をかけて、ボサボサの白髪混じりの前髪で、真夏の暑いさなか、ペラペラの薄っぺらい生地で出来た安っぽいスーツを腕にかけた、太った背の低い50代の人生に疲れたおじさんだった。おそらくは営業でどこかの企業を回って、取引先の担当者に「景気、悪ぅてあきまへんわ、ほんま」とか言って同情をかった帰りだったのだろう。

私が二度目に会った杉田さんは、真冬の寒い時期に、黒のタンクトップにジャケットを羽織ったハタチ前後のスラッとした細マッチョなチャラ男だった。眼鏡なんて当然掛けるはずもなく、ときおりジャケットをはためかせて、肩や胸の肌を見せる。ルックスに自信が無ければできないジャケットプレイ。目の前の若者が、半年前に見た初老の老人と同一人物だと理解するのにかなりの時間が掛かった。

それ以後も、ゆるふわな天然パーマがこぼれるニット帽に、厚手のセーターを合わせて、抱きしめたくなるようなヌイグルミさんキャラになったり、何をやってもダメな冴えない三枚目キャラになって周囲に優越感を与えたりと、多種多様な杉田さんを見たし、短く刈り上げた前髪を立たせて、細く吊り上がった眉と鋭い眼光で、てっぺんを取りに行くアーチストモードの杉田さんもいると、写真付きで噂を聞いたこともある。

要は目の前にいる誰かに求められる人物像を演じるから、会うたびに別人格の杉田さんを知ることになるのだが、私の知る限り、この手のタイプの人は出世が早いし、上流階級の優秀な人に多い。会社の中で、上司の前ではドジでカワイイ部下を演じ、部下の前では頼れる優秀な上司を演じ、奥さんの前では良き夫であり、子供の前では良き父であり、親の前では良き息子である。社会生活を営む上でそれらのロールプレイは必要なわけだが、優秀な人がそれを演じた時に、振れ幅が大きすぎて同一人物に見えなくなる時がある。杉田さんの行動のキャパが、私の認識のキャパを超えてしまうのだ。

驚くべきは、行動様式の幅の広さでなく、相手が求めている人物像を短い会話の中で短時間で探り当てる能力だ。黒瀬さんが作家の実存を掘り下げることで、作品の真意に到達するとすれば、杉田さんは顧客の実存を掘り下げることで、その人が求める人物、その人が求める作品に成りきる。自分が何を求めているのか、顧客本人すら気づいてない何かを絵を通じて言い当てる。

昔、テレビ東京のテレビチャンピオンという番組で似顔絵職人選手権という企画があった。複数の似顔絵職人が有名人の前で似顔絵を描いて、誰の絵が一番気に入ったか本人に選んでもらう企画だった。最初の有名人が元祖レースクイーン岡本夏生で、他の似顔絵作家が黙々と写実的な似顔絵、石膏デッサンのような絵を描いていく中、その似顔絵職人さん(たぶん小河原智子さんだと思う)は「好きな動物は何ですか?」などと岡本夏生さんに話しかけながら描いて「猫が好き」という岡本夏生に「じゃあ、夏生さんを猫にしちゃって良いですか?」と言って、男性に媚びるセクシーな女性の隠喩でもある、猫になった岡本夏生を描いて一勝。他のタレントさん相手にも一人デフォルメ路線で勝ち進み、最後のジャイアント馬場選手の似顔絵は、キュビズムタッチの抽象画で勝負をかける。他がすべて写実的な絵の中、一人だけキュビスムの抽象画。ジャイアント馬場選手は絵を描くのが趣味で、画家になるのが夢だったプロレスラーだ。馬場選手だってテレビカメラが回っている中で、自分がカメラにどう映るのかを意識しないわけが無い。プロレスラーと言えば、粗暴で知性や教養が無いように思われるけれども、ここはキュビズムの絵を選ぶことで、知性や教養のあるジャイアント馬場を見せつけたいと考えたとしてもおかしくない。馬場さんはキュビズムの絵を選び、デフォルメ路線の似顔絵職人が優勝する。他の絵師が石膏デッサンのような絵を描く中、一人だけモデルに話しかけて、モデルが描いて欲しい自画像を引き出していく。その絵はモデルの外見とは、ほとんど関係が無い。モデルの内側にある理想を描いた絵画だ。

杉田さんの絵に対する姿勢も似顔絵職人と近い気がする。絵の中に画家の実存でなく、顧客の実存が深く描かれている。仮にその顧客が何十才だとして、その顧客が生まれた時代と、その顧客が育った時代と、その顧客が生きているいま現在は、それぞれ微妙に異なっていて、幼児期と大人になってからでは社会におけるポジションも異なっていて、その顧客を育てた親や祖父母は、その顧客よりも何十年も前に生まれていて、その祖父母が生まれ育った明治・大正期や第二次大戦前後の時代は、祖父母や親を通じて、その顧客にも何らかの影響を与えていて、その顧客の人生や実存を掘り下げることで、時代や社会と絵が間接的につながっていく。杉田さんの絵を批評しようとすると、誰に向けて描いた絵なのかという情報が無いと、難しい気がする。

2ちゃんねる芸術デザイン板で、杉田さんのスレッドはここ一年以上、常に上位にあって、スキャンダルにまみれている。2ちゃんねる自体が悪口を書き込むためのHPであり、ここで悪口を書かれるのは有名税だとしても、杉田陽平スレッドに書かれる盗作疑惑は、他の画家のスレッドと比べても穏やかではない。論点は二つ。杉田さんの絵画の写真トレース疑惑。杉田さんの絵画に付けられたアーチスト・ステイトメント(作家による作品説明文)の無断引用疑惑。

写真トレースに関していえば、写真の発明&普及以後の写実絵画に価値はあるのか問題になるわけで、アニメやサウンド・ノベルの世界ではファンによる聖地巡礼というのが行われていて、アニメに出てきた場所に行って、同じ背景で写真を撮るのが流行っている。アニメファンの中では、アニメの背景は架空の都市であっても現実の都市をロケして撮った写真のトレースだと、みんな知っているわけです。写真をトレースした方が早く正確に描けるのに、目で見てデッサンしたはずだと信じ込む方がナイーブ過ぎるとも言える。

それと同時に写真の著作権問題もそこにあるわけで、自分で撮った写真か、他のカメラマンが撮った写真の無断トレースかで、話が分かれる。通常、漫画やアニメでトレースされる写真は、野球場やバスケのコート、高層ビル群や平屋の町並みなど誰が撮っても同じような絵になる匿名性の高い写真であることが多い。対する杉田さんの絵の元ネタとされる写真群は、幻想的で美しい芸術性の高い海外のアートフォトで、カメラマンの記名性が高い。そういう意味で言い訳がきかないっちゃきかないんだけど、ある種、日本の翻訳文化問題とも関わってくる。杉田さんは何万円もする高価な洋書の写真集を何百冊も持ってて、それは大学教授が一冊何万円もする洋書の学術書を輸入で手に入れて、それらの文献を日本語に翻訳翻案して紹介することで飯を食っているのと、似ていると言えば似ている。海外の最先端の学術動向を日本に紹介するのが学術専門家の仕事とするなら、引用元や参照元を記載する必要はあるが、海外の動向を無視して成立している世界でもないわけで、何万円もする高額書籍を何十冊何百冊輸入する手間をかけているわけで、ネットのコピペで済ましているわけでもない。

オリジナルとコピーの話をすると、絵から絵を生み出す模写は、同一メディア内の移動だから、オリジナリティが低いとして、写真から絵を起こすのは、それよりも少しオリジナリティが高いと言える。現実の風景から写真を撮るのは、それよりもよりオリジナリティが高いとして、写真や写真の連続からなる映画は、オリジナルと呼べるのか。写真で街の風景を撮るとして、ビルがある、車がある。ビルも車も人工物である以上、デザイナーがいるわけで、ビルや車の外観を作ったデザイナーの許可を取って写真を撮っているのか?人混みを撮るとき、人々が服を着ている。その服が人工物である以上、デザイナーがいるはずで、一人一人が着ている服のメーカーに問い合わせて、服の型番を調べ、デザイナーに許可を取っているのか?カメラマンが厳密に著作権を行使し始めると、カメラマンもまた別の角度から、とばっちりを食らう世界があって、著作権を厳密に行使しすぎると映画もテレビドラマも撮影出来なくなるのは間違いない。

写真の発明以後の具象絵画のオリジナリティを語った時に、輪郭が仮に写真のトレースだとして、色彩を変える方法がある。とわ言えネガフィルムみたいな色彩にしても違和感が残るわけで、仮に紫の壁を塗るときに、パレットの上で赤と青の絵具を混ぜるのではなく、細かい赤の点描と細かい青の点描をキャンバスの上で混ぜることで明度や彩度を上げたまま中間色の色彩を出すというベタに印象派技法もあれば、筆の動きや絵の具の盛り上がりを残して、グネグネした油絵のマチエールを前面に出す描き方もある。遠くから絵画の全体を見れば写真にしか見えない絵が、近くで見ると雑で大雑把な輪郭や大胆な筆運びで抽象画にしか見えないこともある。写真にはない、筆やペインティングナイフの動きを眺めるのも絵画特有の鑑賞法だと思う。

ステイトメントに関して言えば、書き言葉に無頓着な画家が、活字のルールを知らずに引用してしまったのが現実だと思う。変な話、今回の個展を紹介するHPにしても、印象派具体美術協会に関する説明文に引用符はある物の、引用元が明記されていないという単純なミスがある。※1、※2などと脚注番号を入れながら脚注そのものが無い。おそらくワードか何かで作った物をブログにコピペしたら記法が違ったのだろう。引用元はおそらくwikiで、本来なら引用元にリンクも貼っておけば親切だけれども。無邪気で悪意が無いことだけは伝わってくる。

杉田陽平公式 http://ameblo.jp/sugiheiattack/entry-12022772977.html
会場 みんなのギャラリー http://minnanog.wix.com/minna#!exhibition/c199t

場所 千代田区平河町1-1-9クリエーターズデン2F
http://minnanog.wix.com/minna#!contact/czpl
半蔵門駅1番出口を出て右側の交差点を渡ったオリジン弁当で右に曲がった半蔵門ギャラリーの二階。

会期2015年5月15日〜25日(5月20日休み)
時間12時〜19時(初日は15:00−21:00 / 最終日は12:00−17:00)