タイムマシンエンジンの展示を見てきた
ので感想を書かなきゃいけないのかなぁと。学歴コンプレックス丸出しの学歴厨である私としては、そこから書くことになるが、美術の東大と言われる、日本唯一の美術系国立大。そこの学部3年生有志による展示だった。先端表現芸術科とは何か?になるが、英語だと学科名がインターメディア・アートになっている。メディアを横断する芸術みたいな意味で、西洋画=油絵や日本画=岩絵の具でなく、ロザリンド・クラウスがポスト・メディウムと名付けたジャンルになる。絵画科の油画や日本画と比べると制作というよりもは、メディアの異なる美術品を会場内にどう配置するのか?と言ったインスタレーション的な要素や学芸員的な要素、キュレーターや美術史家や美術批評家なども将来の進路に入る学科とされる。画家というよりは美術館や画廊の運営側に近い学科だ。


先端芸術の卒業生としてカオスラウンジの黒瀬さんがいて、黒瀬さんの予備校での教え子である竹下美汐(みせき)さんが、タイムマシンエンジンで展示をしている。竹下さんは鏡に自分の顔を描いた絵を出していて、これに黒瀬さんは過剰な反応を示している。鏡に映った顔と、鏡に描かれた顔と、現実の自分の顔の三層構造が云々と興奮状態で語られるのだが、正直私にはよく分からない部分もある。黒瀬さんの美術批評家としてのデビュー作は「キャラクターが、見ている」で、絵に描かれたアニメのキャラクターが、絵の鑑賞者であるこちら側を見ているという話で、視線の問題を扱っている。他にもう一つ黒瀬さんの重要な美術批評としてユリイカ2010年9月号掲載の物があって「ポップアートと死」をテーマにしている。


人間には、その人にしか分からない感情のスイッチがあって、黒瀬さんの場合、それが「視線」や「ポップアートと死」で、絵の話をしているときに、この単語を不用意に発すると、怒りや逆鱗でもないんだろうけど、ある種の感情が爆発して、自身の言語化能力を超えた感情に対して、無理矢理言語化しようという意志が働いて、文章にならない単語や文章の断片を早口でまくし立てる感じになる。一応、原稿化はされているが、それでも言語に昇華されていない領域はあって、安易にその単語を発すると黒瀬さんを傷つけるから口にしてはいけない。にも関わらず、視線について書かれた「キャラクターが、見ている」の最終章を、黒瀬さんの意志と無関係に、私が勝手に解釈すると、こういう感じになる。

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中学や高校の頃、現実の生活は詰らなくて、親や先生のいう社会のルールが正しいとも思えずにいた。アニメの中の世界は現実と違って楽しく、アニメの世界に出てくるルールや倫理は面白く納得出来るものであった。大人はまじめに勉強して良い大学行って良い会社入ってと言うけど、アニメの主人公は、もっと無茶苦茶している。世界征服をたくらむ悪の大王に勝てる見込みがなくても戦いを挑む。自分がある程度大人になった時に、大きな組織の中で、組織のルールに従って無難に安全な日々を送りたいと思う自分もいる。でも、そんな自分をあのアニメのキャラが見たらどう思うだろう。中学の頃、大嫌いだった大人たちと同じことをやろうとしている自分を見て、アニメのキャラは悲しまないだろうか。もしアニメの世界に自分がいて、現実社会のルールに従って無難な生活を送っていたら、それはアニメの視聴者から見て一番詰らない悪役なわけで、もっと無茶苦茶をしなきゃいけないのではないか。現実社会の詰らないしきたりに従いそうになる自分を、アニメのキャラが見守っているんだ。
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昔の日本で言えば、悪事を働いて、バレずに得をしたとしても、「お天道様が見ているんだよ」という時の、お天道様の位置にアニメキャラが来ている。善悪をつかさどる神の位置だ。倫理的というか宗教的というか、そういう側面のある批評として自分は読んだ。もちろん遠近法とか絵画の技法の話がメインで、ちゃんと美術批評になっているのだが、黒瀬さん独自の実存的なところは、アニメのキャラクターと倫理や宗教がつながる部分でしょう。単に技法の話だけだったら、特定の単語が出てきただけで取り乱したりはしない。


竹下さんの鏡に描いた絵は、私が想像する黒瀬さん視点だと、自分を見る鏡にキャラクターが描かれているわけで、自分を律する存在としてのキャラクターが自分を見ている絵になる。ラカンを持ち出して、鏡に映った自分を想像界、鏡に描かれたキャラクターを象徴界、現実の自分の顔を現実界として、その三層構造で黒瀬さんが説明していたような気もする。同じ絵でも実作者の竹下さんの説明になると、また意味が変わってくる。竹下さんにとって、鏡や自画像はナルシズムの問題で、竹下さんが高校生時代に作ったポートフォリオを見ると、プリクラや鏡を通して、女子高生である自分に周囲が期待する美や色気と、自分でも自分に期待する容姿があって、そのナルシズムを自覚することによって、ナルシズムから自由になるというパターンが繰り返される。鏡に描かれた自画像は、自分や周囲が期待する美化された自画像であって、最終的には乗り越えられるべきものとしてある。