1968年のヒッピーは何故80年代にヤッピーに成ったのか

1960〜70年代の学園紛争(スチューデントパワー)で暴れたヒッピー(≒左翼)が、何故1980年代のバブル期に金融機関(土地を担保に金を貸す日本の制度で言えば不動産業者も金融機関の一種)に勤めるヤッピー(≒右翼)になったのか?

これは1945年の第二次大戦終了時に、戦場から若い男性兵士が本国へ戻って、自国の女性と結婚して生まれたベビーブーマー世代が、1968年の学生時代(仮に1948年生まれだとして1968年地点で20歳)に左翼運動をやって、1980年代のレーガン中曽根時代、シカゴ学派フリードマンが力を持った時代に(仮に1948年生まれだとすると32歳)、多くの若者(ベビーブーマー)が金融機関に勤めてヤッピーになったという話で。

左翼の若者は、何故、就職すると転向して右翼に成るのか?という問いです。

国全体が左翼だった1960〜70年代と、国全体が右寄りのバブルに沸いた1980〜90年代だと、テレビや雑誌に流れている情報自体が異なっていて、岡林信康の「くそくらえ節」

が話題になっていた時代と、トレンディドラマで、独身の美男美女が毎晩ホームパーティと恋愛をして、スポーツカーを乗り回していた時代では、時代の空気感が違う。しかも、その断絶(ヒッピー/ヤッピー)は日本だけでなく、アメリカやヨーロッパでも起きている。

橋本治は60年安保の原因を東大医学部の閉鎖性に求めたが、それでは何故、同時期のアメリカやヨーロッパでも同じことが起きたのかが説明できない。

最近、近所に住む一見50代に見える72歳のおじさんと出会った。彼は共産党員で、しんぶん赤旗の勧誘に来た。72歳という事は第二次大戦末期の1944年生まれになる。

「中卒で東京に集団就職に来て、和菓子工場の寮に住んで一日中働いて3年間過ごした。当時、中卒は金の卵と呼ばれた。工場内の寮だから、職場から離れることがなかった。」と彼は言った。
「工場で金を貯めたら工場を辞めて、夜間の高校に行った。働きながら通える四年制の高校だった。それからまたお金を貯めて、夜間の大学に行った。働きながら5年間通って機械工学科を出て、機械の設計技師になった。大学を卒業する頃には、職場を7つも変えて、30歳に成っていた。」と言う。

伊藤博敏著の「黒幕」に出てくる石原俊介と似た経歴だと思った。戦中生まれの世代なら、中卒で就職列車に乗って都会へ集団就職して、働きながら夜間高校、夜間大学は普通と言うか、下手すれば超エリートの高学歴コースかも知れない。

この時代に貧乏人が高校や大学を出ようと思ったら共産党に入党して、党から学費支援をしてもらうしかない。この時期の日本はインフレ率が高いので、学費も全学年で毎年上がる。学費値上げ反対闘争をする学生左翼運動に、多くの学生が参加するのも理解できる。ちなみに私が入学した1990年代はデフレに入っていたので、学費の値上げは新入生のみで、在校生は入学時の学費を据え置きで、卒業まで保証される仕組みだった。

72歳のおじさんが、中卒で集団就職したのが恐らく1959年。大学出たのが1974年。第二次大戦で日本が敗戦した1945年地点で、当時の政財界の大物はGHQから戦争責任を問われて、地位をはく奪されている。上の世代がいないから、1945〜60年ぐらいまでは大卒であれば、官僚や公務員として、それなりに高い地位に就けたはずだ。

これが68年にもなるとポジションが埋まってしまって、大学を出ても公務員の職がない。苦労して大学を出たのに、上の世代と比べて、期待されただけの見返りがない。学園紛争の一因は大卒の就職難だろう。ブーマー世代が多すぎて、国や企業が雇用しきれない。仕方がないから自ら会社を作ったりする。

高度成長で日本列島改造論の時代、土木や建築の業者が政府から下請けの仕事を受注したければ、与党である自民党とのコネクションが必要に成る。地方選挙のお手伝いをして、政治献金を送る。進学目的で共産党に入党した若者は、社会人に成ると仕事の受注目的で自民党に入党する。

ヒッピーがヤッピーに転向する理由を日本ローカルで説明するには、それで十分だが、アメリカやヨーロッパを説明するには、その説明では通用しない。