リア充うぜぇ

SEKAI NO OWARIのウザイ感じは昔で言うブリリアント・グリーンやピーター・ポール&マリーに通じる。男女混成バンドで、美男美女揃いだと、なんかウザイ。サザンとドリカムは男女混成だが何故かウザくない。


カオス*ラウンジの黒瀬さんがネットラジオで、美大を舞台にした少女漫画「ハチミツとクローバー」を「あいつら作品作らずに恋愛しかしてない」と、こき下ろしていて、笑えたというか。カオスラウンジに限らず、ゲンロンカフェ周辺の人達はリア充感というか、男女混成感を避けてる気がする。


カオスラウンジとかじゃぽにかとか渋家(シブハウス)とか、美術集団というかグループがあって、その内のいくつかは男女混成グループなんだけど、というかグループ展をやるとなると、どうしたって十何人が出入りするから男女混成になるのだが、リア充感が出ないよう、あえてモテないオーラを出してくるグループが、何故そのセルフイメージで勝負するのか気になる。


美術やっている人で美大を出るか出ないかぐらいの年齢の人達は、絵を描くために東京に出てきて、アトリエ付きのアパートに住むんだけど、アトリエ付きの物件自体が少ないのと、アトリエがアパートの住人の共同スペースになることが多いなどの事情で、同じアパートに共同生活して、美術集団を作って、作品制作のアトリエを共有し、作品発表の展覧会もグループ展形式で共有し、個人でアトリエや展覧会の費用を持つよりも安く分担するんだけど、男女混成の共同生活・シェアハウス&シェアスタジオ的な集団もいっぱいあって、TV版第一回放送時の「テラスハウス」も東京芸大の住人も居て、世間の美大生のイメージ=テラスハウスリア充になったときに、世間の目は若い男女がシェアハウスしてSEXしまくっているというイメージに成ってしまう。そのイメージを覆そうとすると、逆に過剰なモテないアピールをする美大生に成る。


インテリ/非インテリの二元論で行くと、普通なら、同性だけのホモソーシャルな閉じた関係性社会性で動く日本社会を批判し、欧米流に議員や公職の何パーセントはマイノリティ(女性や外人や身体障害者)を入れなければいけないとか、カップル(夫婦などの男女ペア)でなければ入れないレストランやホテルなどを増やすべきだとか主張するのがインテリなのだが、あえて逆をいくゲンロンカフェのスタイルは実務レベル/思想レベルで、何か深い理由があるような気がする。職場にいかにも異性ですという服装や態度や仕草の女性がいると、そういう事実はなくても、浮気をしているのではないかと疑われてしまうとか、そう見えるリスクを回避するために、職場の女性には男性以上に男性的な行動を要求するとか。かなり古い言葉だけど、中尊寺ゆつこの「おやじギャル」も、そういう類の話だと思うし。なんかこう、自分の中で言語化は出来ていないのだが。