分業制度の効率性

速く走るためのトレーニングでも、ある一定以上のレベルになると、短距離走用のトレーニングと、長距離走用のトレーニングは、正反対になる。短距離は速筋(瞬発力)を鍛えるが、長距離は遅筋(持久力)を鍛える。重い速筋が上半身に付きすぎると、長距離は走れない。高いレベルで短距離走用の体と長距離走用の体を両立することは難しくて、短距離用の体から長距離用の体へ筋肉を作り替えるのに、何週間かの時間が掛かったりする。


音楽でも、ベンチャーズのレコードを演奏している人と、ベンチャーズとしてライブをしている人は別人だった。(「急がば廻れ’99〜アメリカンポップミュージックの隠された真実」参照)曲を作りレコーディングをする作業は、個人の中の意識を掘り下げていく作業だから、他人とのコミュニケーションを遮断して、過去の自分と向き合ったり、機材や譜面の論理を掘り下げて行ったりするが、ライブをする作業は、お客さんやプロモーターやマスメディアとのコミュニケーションだから、内省モードでは仕事にならない。心のギアをレコーディングからライブに切り替えたり、ライブからレコーディングに切り替えたりするのに数日無駄に時間が掛かったりする。だったら、分業でレコーディングする人とライブする人を分けた方が、効率が良い。


最近、駆け出しの画家の方と話す機会があって、写実的なデッサン力が高い方なのですが、美術史的なことを知りたいというので、読書会みたいなのをやっていた。俺、美術史とか素人じゃん。向こうはある程度ちゃんとした美術教育受けているから、当然俺より美術史詳しい前提で接するんだけど、何か不思議な経験だった。俺は素人の哲学読みで、趣味で哲学史や思想史をかじっている。美術批評・美術史なんかも、哲学史がベースになっている所があるから、美術史の中の抽象的な哲学用語の解説ぐらいは多少出来たりもする。もちろん、具体的な美術作品や作家のことは知らなかったりする。


何人かの写実的な絵を描くデッサンモードにギアが入っている画家の方と話して思ったんだけど、デッサンモードだと、抽象的な思考が一切できなくなる。デッサンの上手い人が並木道の街路樹を描くと、すごく細かく木を見るから、一本一本の木が全部違う木で、同じ木なんて一本もない。その木に特有の固有性を描くから、デッサンがリアルに見える。街路樹にあたる日光だって、一時間もすれば、太陽の位置が変わって、影の方向も変わって、全く別の絵になる。画家が描くのは、その木にある角度から日光が当たったある一瞬であって、同じ木でも日によって時間によって全く違う姿に形を変える。


デッサンモードにギアが入っていると、抽象的な概念が受け入れられなくなる。例えば、「木」という概念は、何本かある木の中の共通する要素を抽象化した概念なんだけれども、デッサンモードだと「具体的にどの木のことを言っているのか?」となる。そこで「この街路樹なんかも木の一種だよね」と答えると、その木をデッサンして「なるほど、これが木という概念か」と理解する。でもデッサンが描き終った時には、デッサンされた木とは、別の木に成っている。デッサン前とデッサン後だと、木に対する日光の当たり方、影の付き方が変わっているから、スケッチブックの木と実物の木は別物になっていて、その画家にとって、スケッチブックの木が木であって、実物の木は木ではなくなっている。


デッサンモードのギアのまま、美術史を理解しようとすると、知らない単語はすべてネットで画像検索して、トップ画像をデッサンして、静止画で記憶しようとする。「写生画」「弁証法」と単語が出てきたら、取りあえず、画像検索してデッサン。多少、大げさに極端な例を出しているけど、基本、そういう感じ。「弁証法って何?」と聞いたら、スケッチブック取り出して、絵を描いて見せる。画家と美術批評家の分業制度は正しいと思った。

自分としてはギアを変えるつもり。成功率は低いけど。