反抗期・反抗する若者像は、いつどのように作られたのか

反抗期もしくは反抗する若者達という概念が、何故、どういう経緯で生まれたのか。フィリップ・アリエスの「子供の誕生」とかあるのだが。江戸の丁稚奉公制度の中に反抗期の若者像を見出すのは難しく、反抗期が近代以降に作られた概念であるとすれば、それはいつ誰によって作られたのだろうか。


1982年前後にネオロカビリーブームがあって、洋楽だとストレイキャッツ、邦楽だと横浜銀蝿、キャラクターグッズだとなめ猫が流行って、校内暴力や不良をテーマにしたドラマも多く作られた。リーゼントに革ジャンにバイクという不良スタイルが、メディアに出た時期だ。アンダーグラウンドで育まれた文化が、オーバーグラウンドで公開されて、消費されていく過程で、ある種の文化はパロディー化されて、シリアスではなくお笑いになっていくわけで。キャロル(1972年〜75年)と横浜銀蝿(1980年 - 1983年)の時代背景の違いを見ても、日本の自動車の普及率が急速に上がって50%を超えるのが70年代で、キャロルぐらいまでの時期だと、バイクに乗れる若者というのは金持ちの子息に限られていたわけで、キャロル以前の暴走族ファッションは石原裕次郎加山雄三のイメージで、アロハシャツにピンクのサングラスで、自家用クルーザーでダンスパーティ開いている「エレキの若大将」みたいな、庶民とは無関係な存在で、矢沢永吉のアイラブユーOKなんかも、エレキの若大将的な社交ダンスパーティ、チークダンスのイメージを引きずっている。これが、80年代のリーゼント系になると、高校受験で普通科の高校を落ちて工業高校自動車科に入って、グレるてなステレオタイプがTVドラマになる。自動車普及以前の、自家用車を持っている=金持ちだった60〜70年代の自動車科と、円高で製造業が空洞化してからの斜陽産業になった自動車科では、イメージが違ったりとか、あるわけで。TVドラマで量産されるステレオタイプは、ドラマの作り手である大人が自らの子供時代を振り返って作るので、時代から少し遅れて作られるわけで、80年代の工業高校はリーゼントで腕っ節自慢の不良が通う自動車科から、眼鏡かけて青白い顔したビルゲイツみたいな外見のTVゲームオタクがゲームのプログラムを作るゲーム科に移行してたりする。


メディア側の大人達(30〜40代)が自分たちが若者だった時代の風俗(約20年遅れ)をメディアに流す。それを見たこれから若者になろうとする子供たちが、模倣するなり反面教師にするなりして、若者としての生き方を選択する。そこに20〜30年ぐらいのタイムラグがある。


1968年に主要先進国の若者達が、大人達に反抗して、スチューデントパワー・学園紛争を起こす。日本ローカルの現象でない以上、原因も日本ローカルの話じゃないわけで、東大医学部の閉鎖性が〜、日大の〜、という問題ではなくて、少なくともアメリカやヨーロッパとも連動している。1968年映画のヘイズコードの廃止と、それに到るまでのヘイズコードの弱体化によって、大人達に反抗する若者像が映画によって描かれるようになった。その映画を模倣する形で、学園紛争が起きたのではないか。


第二次大戦時、10代20代で戦場に行った若者達が居て、生きて帰ってきた帰還兵の中には、人を殺した人もいっぱい居るわけで、戦後、戦争を悪だとする教育やマスメディアの論調の中で、戦争の中で人を殺した人達は、あれを反抗期と呼ぶことによって罪悪感を軽減したのではないだろうか。10代20代で戦争を経験した少年兵なんかが、30代40代になって、マスメディアで情報を流す側になったときに、自らの若者時代を、反抗する若者として描いて、それを模倣する形で、68年のスチューデントパワーが生まれた気がする。暴走族の元祖カミナリ族も元は第二次大戦の戦闘機乗りだったわけで。

洋画
乱暴者(あばれもの 原題:The Wild One)(1953年)
暴力教室(1955年)
理由なき反抗(1955年)
監獄ロック(1957年)
灰とダイヤモンド(1958年)


邦画
太陽の季節(1956年)
青春残酷物語(1960年)
大学の若大将(1961年)


書きたい事はあるが上手くまとまらない