私立中学/公立中学

秋元康の自伝的小説「さらばメルセデス」を読むと、私立の中高一貫男子進学校に行かされた自分の、女子中学生女子高校生と同じ教室で勉強して、恋愛や青春を謳歌したかった〜〜〜〜〜という思いがAKB48やおニャン子クラブを作ったと推測してしまう。おニャン子クラブが50名で一セット。AKBが48名で一セットなのは、一クラス50人学級を前提にしている。女子だけの学級をTVの前に作ることで、男子だけの学級に行かされた自分の過去を取り戻そうとしている。


秋元康は自分のことを自虐的に「東京大学受験に向けて浪人中だ」と言う。中高一貫の男子進学校に行くという事は、思春期の一時期を切り捨てる対価として、一流大学に入るという報酬が保障されている。異性に目が行かない分、勉学に励み、成績が伸びて、一流大学に進学できるはずだったが、浪人しても東大には受からず、浪人中にラジオに投稿したハガキがきっかけで放送作家になってしまった。おニャン子クラブを当てた後も「東大入学をあきらめたわけではない」と自虐的に語る。


秋元康にも学歴コンプレックスがあるとして、自分にもそれはあって、私の場合、中学受験用の勉強を散々やらされた挙句、受験させてもらえなかったというのが大きい。当時の小学校担任の教育方針は「地元の中学校のレベルを下げないためにも、優秀な生徒(教育熱心な親を持つ家庭)も地元の公立中学に行くべき」であった。つまり、私立中学を受ける生徒は、自分だけ地元を裏切りエリートコースに乗ろうとする卑怯者であった。小学校で担任からそのようなレッテルを貼られて小学校に通うのは、それなりに厳しいものだが、そのレッテルを背負った上で地元の公立中学に行くのも、それはそれで厳しいものがあった。


切り込み隊長こと山本一郎氏のBLOGを見ると、中高一貫の私立校出身者特有の青春が描かれている。バブルの時期に私立に入り、高校の卒業時にはバブルが崩壊し、高い私立の学費を何らかの形で滞納している生徒が全体の9割、学費を払わないと卒業できず、高卒の資格を得ることが出来ない。高校3年の3学期に2ヵ月だけ公立高校へ編入することで、大学入試資格を得る。高校3年の2学期から3学期に掛けて、クラスメートの数が急激に減って行く。そういう仲間達の姿を見ていたからこそ、いまの守銭奴キャラが立ち上がってくる。


東浩紀氏が中学高校時代におニャン子クラブ美少女アニメにはまったのも中高一貫の男子私立進学校出身という出自と無関係ではないだろう。


小学校の勉強と中学受験用の勉強は明確にテスト範囲も違う。どちらかをやれば、もう片方の成績が落ちる。小学校の先生の前で受験用の勉強をしていれば怒られるし、受験用の先生の前で小学校の勉強をしても怒られる。この二つは対立するものだった。学校の勉強はインチキだ、こんなものは役に立たない受験用の勉強をしなさいと、大人たちが言う、けれども受験をさせてもらえなかった以上、受験用の勉強も役に立たなかった。学校の勉強がインチキで、受験用の勉強もインチキなら、真の知識、真の学問はどこにあるのか。真の知識なるものが仮にあるとして、それは何の役に立ち、何を目的とするのか。その頃の問いに、真面目に答えようとしてくれていたのが、ニューアカブームを作った「構造と力」の第一章や別冊宝島現代思想系の本だった。自分にとってニューアカおニャン子だった。


中学の頃、好きだった漫画は「マカロニほうれん荘」「ハイスクール奇面組」「マンガ 老子の思想」だった。最初の二つは「東大一直線」と並ぶ学歴社会批判・受験戦争批判のギャグマンガで、老子道教は、官吏登用試験を出題する儒教に対する批判を主とした、受験批判思想だった。


奇面組は自己承認欲求の満たし方別に、いくつかの集団を登場させる。勉強のできる骨組、運動の得意な腕組、喧嘩の強い不良グループ番組、ルックスがよく女性にモテる色男組、女性版不良グループ御女組、お笑い担当奇面組。当時の自分は、自己承認欲求をいかにして満たすのか、もしくは自己承認欲求がどのように傷つけられるのかに興味があった。


古代ギリシャにおいて、悲劇とは神や英雄が出てくる一般的な観客よりも優れた登場人物による物語で、喜劇とは愚か者が出てくる観客よりも劣った人達が出てくる物語だった。お笑いとは、社会の底辺にいると感じている観客よりも、さらに低い位置に立つことによって、観客の自己承認欲求を満たすものだと思う。


子供の頃、チャップリンサイレント映画のどこが面白いのか分からなかった。チャップリンは失業者・ホームレスの役で登場し、サイズの合わないタキシードを着て、帽子をかぶり、ステッキを持ち、靴底の破れたおでこ靴を履く。ホームレスなんだけれども、金持ちのゴミ箱をあさって、金持ちが捨てた最高級ブランドの破れた服を着る。単に社会の底辺にいるのではなく、金持ちという消費社会の規範に則っているかのごとく振舞うところに笑いが生まれる。


黒人のラッパーがジャージ姿でステージに立ち、俺のジャージが有名ブランドの高級品で、いかに俺が金持ちかというラップをする。


中学に行ったとき、私立に行った友人なんかは、プレッピースタイルの服装で学校に通っていた。有名私立という奴は、幼稚園〜小学校には制服があり、中学〜高校には制服がない。公立とは逆になる。登下校時、中学生が私服で繁華街をうろついていると職務質問されるので、制服っぽい私服で学校に通う。制服っぽい私服がプレッピーだ。自分は公立だったので制服で学校に通うが、学校の方針で全員運動系の部活に強制入部だった。スポーツをやらせれば不良に成らない的な教育理念なのだが、部活で早朝の朝練があればジャージで学校に行き、六時間目以降に部活があればジャージで部活をしてジャージで下校する。部活でも全国大会に出るレベルになれば、ユニフォームを作って、我が校の名誉**部です!とブランド化されるのだが、成果の出ない部活はジャージで登下校する。スポーツをしなくても不良化しないような学校・生徒は体育系部活への強制入部もなく、制服通学できるが、俺みたいなザ・底辺だと、ジャージで通学なわけです。


黒人のラッパーがね。プレッピーファッションで、俺のセーターが最高級ブランド品で〜みたいなラップをしたら、本当に嫌な奴じゃん。底辺校の象徴であるジャージを着て、このジャージが最高級品で〜とラップするから笑いになる。


AKBのお笑い担当指原は、ジャージを着なくなった地点でダメだと思うよ。他が水着グラビアなのに一人だけジャージ。AKB総選挙で他がドレスなのに一人だけジャージ。ジャージは重要アイテムだと思うけどな。