金融危機

頭悪い俺がなんか色々、床屋政談してみる。
土地を担保に紙幣を貸していた銀行が地価の下落によって倒産の危機にあったのが日本のバブル崩壊
株券・証券を担保に紙幣を貸していた投資銀行(インベストバンク。実質的には証券会社)がやばくなっているのが今回の金融危機


金本位制の崩壊と似たような、土地本位制の崩壊とか、株本位制の崩壊が起きているような気がする。
政府発行の紙幣(例えば1ドル)が何故信用できるかというと、政府に持っていけば金塊と交換できるから、というのが金本位制で、銀行が発行している預金通帳が何故信用できるかというと、銀行は土地や株という担保を取って金を貸しているからで、貸した紙幣が返ってこなければ、紙幣のかわりに土地や株が手に入る。


紙幣というのは一つの借用書なわけで、政府から個人が政府発行の紙幣を受け取る時、一万円なら一万円分の借金を政府は個人にしていることになる。金本位制なら政府は借金の担保として金塊を持っていて、個人は一万円の紙幣を金塊と交換できる。


銀行が企業に融資するとき、企業は銀行に借用書を出す。企業が出した借用書は政府発行の紙幣と同じ意味を持つ。一万円なら一万円の借用書・手形・紙幣として銀行から銀行へ、企業から企業へ借用書は移動する。その一万円の借用書が一万円の価値を保証するのは、土地本位制なら土地と、株本位制なら株と交換できるからだ。


紙幣の価値を保障する土地や株が、実は無価値なものであったら、紙幣そのものの信用が落ちる。通貨危機だ。


紙幣に交換価値はあっても、使用価値はない。


江戸時代のように年貢として米が納められ、米が貨幣として流通していれば、それは使用価値のある貨幣と言える。金やニッケルで作られた硬貨も金属としての使用価値があればこそ、貨幣として信用される。


銀行の融資先が紙幣を返せなくて、担保として倒産間際の会社の株を手に入れたとしよう。しかもその株が、銀行の所有ではなく、預金者の所有になったとしよう。預金者は預けていた預金を引き出すことが出来なくなるかわりに、倒産間際の会社の株を所得し、会社の経営権を手に入れる。経営者となった個人には、その会社が既に抱えている何億円かの債務を背負う義務が発生する。何万人いる社員に対して定期的に給料を払う義務も発生する。倒産間際の会社を立て直す経営手腕を持ったごく普通の預金者はどのぐらいいるのだろうか。


株本位制の中で、預金のかわりに倒産間際の会社の経営権を渡されて、その経営権の使用価値を生かせる預金者はどのぐらいいるのだろうか。


そもそも紙幣とは何か。紙幣を多く持っている金持ちとは何か。


十人の小さな国家を考えてみよう。それは閉じた経済圏で、その経済圏内では自給自足の生活をして、外との貿易は一切していないものとする。政府は一人百円、国全体で千円分の紙幣を発行したとする。国民は一人百円の紙幣を持って、百円分豊かになったが、政府は千円の借金をしたことになる。


政府は借金を返すために、国民一人当たり五十円の税金を取って、五百円分の借金を返した。すると、国民の貯金が減ったので、景気を刺激するために、国民一人辺り、百円の紙幣を印刷して配った。国民の貯蓄は一人一五〇円に増えたが、国の借金は千五百円に増えた。私は国と国民の両方が豊かになる方法を考えたが、良いアイデアが浮かばない。


二人だけの小さな国家を考えよう。もちろん外との貿易は一切ない。その閉じた経済圏の中には優秀な者と、愚鈍な者がいる。二人は元々一人百円づつの紙幣を持っていたが、優秀な者は良い商品を作って、金持ちになった。愚鈍な者は欠陥品を作って、一文無しになった。優秀な者は二百円持っているが、愚鈍な者はお金を持っていない。このままだと、愚鈍な者は金を持っていないので、これ以上優秀な者が商品を作っても物が売れないし、これ以上優秀な者は金持ちになれない。つまり、この二百円を何らかの形で使わないことには、経済が成立しなくなる。
このとき、優秀な者は二百円を使って何を買うことができるのだろうか?


二百円で買える物を考えてみる。例えば、将来の保障を買えるかもしれない。いま、優秀な者は若くて健康で働き盛りだが、いつ病気になるか分からないし、歳を取れば、介護が必要な状況になるかもしれない。そんなとき、二百円あれば、愚鈍な者に介護をしてもらえるかも知れないし、生活に必要な物を愚鈍な者に用意してもらえるかもしれない。でも、優秀な者が働けなくなった時、愚鈍な者が作ってくれる商品は欠陥品ばかりだ。


二百円で買える物を他に考えてみる。取り合えず、百円ほど愚鈍な者にプレゼントしても良いかもしれない。愚鈍な者は喜ぶかもしれないし、優秀な者をほめてくれるかもしれない。しかしこれを何度も繰り返せば、愚鈍な者は優秀な者を当てにして働かなくなるかもしれない。もしくは、労働とは無関係に金を与える行為に対して、愚鈍な者は怒り出すかもしれない。


このとき愚鈍な者が「タダで百円もらうのも嫌なので、ちょっとした芸をやります。それが面白かったら、百円下さい。詰まらなかったら、百円はいりません。」と言って、面白いことをやったら、お笑いや音楽や演劇をやって、優秀な者を十分に楽しませたら、優秀な者は百円で楽しい時間を買うことができる。


優秀な者は二百円で何を買えるのか。この二百円を払うとすれば、愚鈍な者に対して払うしかない。だとすると、愚鈍な者の作り出す商品を買うことしかできないわけだ。優秀な者は愚鈍な者に対して二百円分の債権があり、愚鈍な者は優秀な者に対して二百円分の債務がある。そしてすべての債権は不良債権になる可能性を持っている。仮に、優秀な者が「病気になったら、愚鈍な者に二百円で働いてもらおう」と思っていたとしても、愚鈍な者が先に病気になる可能性もある。


金持ちは自分が優秀な労働力であったから、金持ちになれたわけだが、その金で買えるのは、自分よりも劣った労働力のみだ。


二百円で何が買えるのか。二百円で愚鈍な者の労働力を買ったとしよう。欠陥品ばかり作る愚鈍な者でも優秀な者の下で懇切丁寧に指導されれば、良い商品を作れるかもしれない。愚鈍な者が優秀な商品を作れるようになれば、優秀な者が病気になっても、欠陥品を与えられずに済むし、老後も愚鈍な者が作った優れた商品に囲まれて豊かな暮らしができるかもしれない。


二百円で何が買えるのか。愚鈍な者が作った欠陥品を買ったとしよう。欠陥品とはいうものの、使えないわけではないし、多少不便で使い勝手は悪いが、その商品では生活が出来ないというほどの不良品でもない。その欠陥品を使うことで、優秀な者はいままでの良い商品を作らなくても良くなった。愚鈍な者の作る商品で充分生活して行けるからだ。かわりに優秀な者は、もっと別な仕事を探すようになった。この国には昔から自転車がない。すべて徒歩だ。無ければ無いで、生活して行けるが、優秀な者としては、まだこの世に存在しない自転車という物を、発明し作り上げてみたいと思うようになった。


愚鈍な者が文無しになり、優秀な者が二百円を所有するようになって、貧富の差は拡大し、今後は愚鈍な者に商品購買能力がない以上、より不景気になると思われた矢先、あえて優秀な者は今の仕事を辞めて、新しい仕事を生み出す作業に入った。新しい仕事が軌道に乗るまでの生活費として優秀な者は二百円を使った。


優秀な者が持つ二百円は愚鈍な者に対して払う以外の使い道がない。通貨が米や金属であれば、使用価値があるかもしれないが、通貨が紙幣である以上、愚鈍な者が生み出す何かとの交換価値しか持たない。そもそも愚鈍な者に対する債権として紙幣が存在する以上、不良債権である他は無いわけで、その不良債権をどう優良債権にマネージメントするのかが優秀な者(預金者・紙幣の所有者)に対して与えられる課題なのだと、愚鈍な俺は思う。